伝記
ジェームズ・マギル・ブキャナン・ジュニアは、1919年10月3日にテネシー州マーフリーズボロで、ジェームズとライラ・スコットの3人の子の長子として生まれた経済学者である。父方の祖父ジョン・P・ブキャナンは、1891年から1893年までテネシー州知事を務めた人物だった。1918年に結婚した父は、借金をして農場の機械化を図り、ジャージー種の牛も入れたが、農場は1920年代に苦境に陥った。ブキャナンが働ける年齢になったころには、仕事はすべて人力か馬やラバに頼るものになっていた。本人は後年、水道も電気もない自分の暮らしを「つつましい貧しさ」と表現している。家には祖父の政治書の蔵書があり、他の農家の子と違って、母は学校を一日も休ませなかった。1940年にミドルテネシー州立教員養成大学を卒業するまで実家で暮らして農場を手伝い、1941年にはテネシー大学で修士号を得た。
1941年9月にニューヨークの海軍予備士官学校に入り、真珠湾攻撃の12月7日は、訓練の最後の月にあたっていた。1942年3月にハワイのホノルルに配属され、ニミッツ提督の作戦計画のスタッフとして将校を務め、1945年11月に除隊した。この時の経験から、北東部の名門大学の出身者が優遇されていると感じ、「東部のエリート」への反感を抱いたと本人は述べている。妻アン・バッケの支えと復員兵援護法の学費補助を得て大学院に進み、1945年からシカゴ大学で学んだ。当初はほぼ社会主義者だったが、フランク・ナイトの講義を受けて6週間のうちに「市場秩序の熱心な擁護者」に転じたという。ナイトは事実上の博士論文の指導者となり、1948年に「連邦国家における財政の公平」で博士号を得た。同じシカゴでスウェーデンの経済学者クヌート・ヴィクセルの業績を知って感銘を受け、ナイトとヴィクセルの写真を終生、研究室の壁に掲げた。
1948年にテネシー大学で教え始め、のちにフロリダ州立大学を経て、1956年から1968年までヴァージニア大学で教えた。その後カリフォルニア大学ロサンゼルス校、1969年から1983年までヴァージニア工科大学で教え、1983年にジョージ・メイソン大学の教授となって、公共選択研究センターの総長を務めた。ゴードン・タロックとの共著『公共選択の理論』(1962年)は公共選択論の嚆矢として知られる。1967年の『財政理論』は、財政学に選択や意思決定のルールの研究を持ち込み、のちの公共選択論への道を開いた。リチャード・E・ワグナーとの共著『赤字財政の政治経済学』(1977年)では、民主主義の政治過程では政治家が人気取りのばらまき政策に走りがちで、有権者も税負担を意識しないため、ケインズ的な財政政策が財政の悪化に至ると説いた。
この理論は、経済学界にとどまらず、世論や政治にも大きな影響を与えた。ノーベル賞の発表までは、多くの経済学者がブキャナンを愚痴っぽい変人とみなしていたが、受賞は彼を日陰から引き出して、主流派経済学の中に場所を与えたと評される。モンペルラン・ソサエティの会長を1984年から1986年まで務め、1986年にノーベル経済学賞を受けた。2013年1月9日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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