伝記
ホルヘ・ラファエル・ビデラ・レドンドは、1925年8月にブエノスアイレス州のメルセデスで生まれた軍人出身の政治家で、アルゼンチンの第41代大統領である。生まれた日は2日とも21日ともいわれる。父は陸軍大佐のラファエル・エウヘニオ・ビデラ・ベンゴレア、母はマリア・オルガ・レドンドで、5人兄弟の3番目の息子だった。1923年に麻疹で亡くなった双子の兄2人にちなんで洗礼を受けたという。一族はサン・ルイス州の名家で、祖父のヒャシントは同州の知事を務めたことがある。1948年にアリシア・ラケル・ハートリッジと結婚し、7人の子をもうけた。
1942年に国軍士官学校へ入り、1944年に少尉として卒業した。歩兵の将校として昇進を重ね、1952年から1954年まで陸軍大学で学んだ。1958年から1960年には国防省に勤め、その後1962年まで士官学校の校長を務めた。1971年に准将に昇進し、国軍士官学校の校長に任じられた。1973年の終わりには陸軍参謀総長となり、1975年にはイサベル・ペロン大統領によって陸軍総司令官に任命された。
極度のインフレと左翼テロの多発でペロン政権への信頼が失われる中、1976年3月24日に、ビデラを中心とする軍部がクーデターを起こしてペロン大統領を追放した。陸軍を代表するビデラのほか、海軍のエミリオ・マセラ、空軍のオルランド・ラモン・アゴスティからなる軍事評議会が設けられ、ビデラは3月29日に大統領に就任した。当初は、政治・経済・社会の混乱が収まれば民政に復帰させると公約していたが、国会の機能を停止し、左翼ゲリラの掃討を理由に多くの市民を逮捕した。この弾圧は後に「汚い戦争」と呼ばれ、1万3千人から3万人以上が行方不明になったとされる。秘密の収容所での拷問や殺害、女性囚人の子の組織的な誘拐もあり、ヨハネ・パウロ1世をはじめ国内外から非難を浴びた。一方で反共産主義を掲げてアメリカ政府やイタリアの極右団体の支援を受け、ドイツから逃れた元ナチスをかくまったとされ、「パンパのヒトラー」と揶揄された。経済ではペロン主義に代えて市場原理を優先したが、外債の急増でさらなるインフレを招き、1981年3月28日にロベルト・ビオラに大統領の座を譲った。1978年には来日しており、翌年に贈られた2頭のポニーは、横浜のこどもの国で飼われた。
退陣後の1983年にラウル・アルフォンシン政権が成立すると、軍事政権の関係者の裁判が始まり、ビデラは1985年に殺人、拉致、拷問などの罪で終身刑を言い渡された。しかし1990年にメネム大統領の恩赦で釈放された。1998年に幼児誘拐などの容疑で再び起訴されて有罪となったが、高齢を理由に自宅軟禁に減刑された。2003年に就任したキルチネル大統領は軍事政権の不法行為の清算を進め、「ビデラは合法的な大統領ではなかった」との声明を出し、肖像も軍学校から取り除かれた。2010年12月22日、裁判所は人道に対する罪で終身刑を言い渡し、軍政の最高責任者として拷問と殺害を直接命じたと指摘した。本人は、マルクス主義者による革命を防ぐための通常の治安措置であり、当時は内戦状態だったと弁護していた。2012年7月5日には、遺児の強制的な養子縁組に関わったとして禁錮50年の判決も受けた。2013年5月17日、収監されていたマルコス・パス刑務所で死去した。死去したのは、シャワー室で転倒した5日後だったという。
同じ年に亡くなった人物
- ヘルガ・アーレント (2013年没)
- ジョルジュ・ロートネル (2013年没)
- ゲルダ・ラーナー (2013年没)
- モーゼス・ブラ (2013年没)
- Paolo Soleri (2013年没)
同じ地域に関係する人物
- Juan Vucetich (1925年没)
- Jorge Cafrune (1978年没)
- カルロス・ルイス・スペガッツィーニ (1926年没)
- エルネスト・サバト (2011年没)
- キリーノ・クリスティアーニ (1984年没)