HISTORICAL PERSON · 2013年没

ジャウマ・サントス

ブラジルの元サッカー選手で右サイドバック。ワールドカップで1958年と1962年の2度の優勝に貢献し、代表100試合出場を初めて達成した。

生涯
2013年没
死亡地
ブラジル連邦共和国(ミナスジェライス州 / ウベラーバ)
出生地
ブラジル連邦共和国(サンパウロ)
出典
世界地図
ブラジル連邦共和国(ミナスジェライス州)

伝記

ジャウマ・サントスは、本名をジャウマ・ペレイラ・ディアス・ドス・サントスといい、1929年2月27日にブラジルのサンパウロで生まれた元サッカー選手である。ポジションはサイドバックで、ブラジル代表史上最高のディフェンダーのひとりとされる。

クラブでの経歴は、1948年に地元サンパウロのポルトゥゲーザで始まった。当初は中央のディフェンダーとしてプレーしたが、のちに右サイドバックに回った。1959年にはパルメイラスに移り、9シーズンで498試合に出場する看板選手となった。このクラブでブラジル全国選手権の前身にあたるタッサ・ブラジルを1960年と1967年に制し、1967年にはロベルト・ゴメス・ペドローザ杯も獲得した。サンパウロ州選手権は1959年、1963年、1966年に優勝している。1961年にはコパ・リベルタドーレスの決勝まで進んだが、ウルグアイのペニャロールに敗れた。1969年にパラナエンセへ移り、1972年、43歳で現役を退いた。

代表では、1952年4月10日、パンアメリカン選手権のペルー戦(0対0)でデビューした。ペレやガリンシャ、ディディといった逸材をそろえたブラジルの黄金世代で、不動のメンバーのひとりとなった。1954年のスイス大会では最初の3試合に出場し、ハンガリーに2対4で敗れた準々決勝、のちに「ベルンの戦い」と呼ばれる荒れた試合でペナルティキックを決めた。これがワールドカップ本大会での唯一の得点となった。1958年のスウェーデン大会では当初ニウトン・デ・ソルジに先発を譲っていたが、決勝のスウェーデン戦で出場し、5対2の勝利で国に初の優勝をもたらした。知的な試合運びと速さ、攻め上がりで評価された。1959年のコパ・アメリカでは、無敗ながら地元アルゼンチンに優勝を許して準優勝となっている。

1962年のチリ大会には33歳で臨み、大会を通して出場して絶頂期の技量を見せた。決勝でチェコスロバキアと対戦すると、右サイドから相手ゴール前へ送ったボールがゴールキーパーの手から零れ、ババの足元に入って3点目が生まれた。日中の強い日差しの中で、高く放物線を描くロングフィードによって相手の目を眩ませる頭脳的なプレーだったとされる。試合は3対1で、これが彼にとって2度目の世界王者となった。1954年、1958年、1962年の3大会で大会ベストイレブンに選ばれており、同様の選手はフランツ・ベッケンバウアーだけである。イングランド協会の100周年記念では、デニス・ロー、レイモン・コパ、ディ・ステファノ、エウゼビオ、ヤシンらとともに世界選抜に名を連ねた。1966年のイングランド大会にも、予想に反して37歳で招集されたが、監督のヴィセンテ・フェオーラは若手のカルロス・アルベルトではなく彼を選んだ。ブラジル史上初の代表100試合を達成した選手として知られ、非公式記録を含めると代表歴は111試合、公式記録では98試合3得点である。

2004年にはペレが選ぶ偉大なサッカー選手の百人(フィファ100)に選ばれた。ニウトン・サントスとは3大会にわたって両サイドバックを組んだが、血縁関係はない。引退後は妻エスメラルダとミナスジェライス州のウベラバで暮らし、地元のサッカー教室に協力し、ストリートチルドレンを支える慈善活動も支援した。2013年7月23日、腎不全のため同州の病院で亡くなり、84歳であった。

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