伝記
ムッラー・ムハンマド・オマルは、イスラム主義勢力ターリバーンの創設者で初代最高指導者であり、アフガニスタン・イスラム首長国の初代首長を務めた人物である。1960年の生まれとされ、アフガニスタン南部カンダハール近郊に生まれたパシュトゥーン人である。一家は極貧の雇われ百姓で、オマルが生まれる前に父を亡くし、生計は本人が支えたとされる。パキスタンのイスラーム神学校(マドラサ)で学び、ソ連のアフガニスタン侵攻ではムジャーヒディーンとしてゲリラ戦に加わり、ナジーブッラー政権と戦った。対ソ連の戦いで4度負傷したとされ、1986年にカンダハール近郊の戦闘で右目を失った。その後はクエッタのマドラサで過ごし、他のムジャーヒディーンと違ってアラビア語を解したため、アブドゥッラー・アッザームの教えを広めた。カラチで説教を始めた際に、ウサーマ・ビン・ラーディンと初めて会っている。1992年にナジーブッラー政権が崩壊すると、カンダハールに戻ってマドラサを設立した。
オマルがターリバーンの指導者となった経緯には複数の説がある。政治や軍事の能力よりも、敬虔で揺るぎない信仰を買われたとする説のほか、1994年に夢に預言者ムハンマドが現れて武装決起を命じたという説もある。周囲から「ムッラー」と呼ばれ、マドラサの50人に満たない教え子らと、アラビア語で「学生」を意味する「ターリバーン」と呼ばれる運動を始め、パキスタンのアフガン難民も合流した。1994年の段階でも勢力は30人ほどで、ライフルも16丁しかなかったといわれる。腐敗した軍閥に憤り、軍閥に誘拐された少女らを救出して人々の支持を得ると、他の神学校からも多数が加わり、1995年にはヘラートを占領した。
同年のカーブル攻略が進まず内部が動揺するなか、強硬派はオマルを「信徒たちの長」を意味するアミール・アル=ムウミニーンに指名した。1996年4月、オマルは預言者ムハンマドが使ったとされる外套をまとって建物の屋上に現れ、広場に集まった1,500人の宗教指導者が「アミール・アル=ムウミニーン」と叫んで忠誠を誓った。1996年にカーブルを占領すると新政権を発足させ、首長に就任した。ただし本人はマドラサの教育を修了しておらず、宗教的勧告を発する権限は持たなかった。
政権は女子教育の禁止など極端な人権侵害を行って国際的に孤立し、テロの黒幕と目されたビン・ラーディンとアルカーイダを客人として迎えて匿ったため、アメリカと激しく対立した。1999年と2000年の国連安全保障理事会決議で引き渡しを求められたが、オマルは従わなかった。2001年9月11日の同時多発テロ後も引き渡しを拒み、北大西洋条約機構軍と北部同盟の攻撃で同年12月に政権は崩壊した。オマルは全権を国防相に書面で引き渡し、カンダハール陥落の2日前に同地を離れ、ザーブル州のカラートに潜伏した。以後はターリバーンで積極的な役割をほとんど果たさず、声明を出すのみだったとされる。
2013年に咳と嘔吐を繰り返して衰弱し、4月23日に病死した。ターリバーンは交渉への影響を恐れて死を伏せたといわれ、2015年7月29日にアフガニスタン政府が死亡を発表し、翌日ターリバーンもこれを認めた。死亡の場所については、同国政府が主張するカラチの病院や、ザーブル州の隠れ家とする説などがある。生前は公式の写真や映像が存在せず、アメリカ国務省の懸賞プログラムに載った写真も別人のものだった。身長は198センチと極めて高く、人見知りで寡黙な性格だったという。墓は2022年11月、ザーブル州で場所と写真が公開された。
同じ年に亡くなった人物
- ブルーノ・メツ (2013年没)
- ナデジダ・イリーナ (2013年没)
- ウィリアム・パトリック・クラーク (2013年没)
- Nilton Pacheco (2013年没)
- ロナルド・ビッグズ (2013年没)
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