伝記
メレス・ゼナウィ・アスレスは、1955年5月8日に生まれ、2012年8月20日に没したエチオピアの政治家である。生まれた日を5月9日とする資料もある。反政府ゲリラの司令官から、エチオピア暫定政府の大統領(1991年から1995年)、続いて首相(1995年から死去まで)を務めた。エチオピア人民革命民主戦線の書記長で、アフリカ統一機構の議長も務めた。
北部のアドワで生まれた。父ゼナウィ・アスレスはアドワ出身のティグレ人、母アレマシュ・ゲブレルエルはエリトリアのアディ・クアラの出身で、6人きょうだいの3番目だった。生まれたときの名はレゲセだったが、のちに、1975年に軍事政権に処刑された大学の同胞メレス・テクレにちなんで、闘争名のメレスを名乗った。入学が11、12歳と遅かったが、学年を飛び級して、8年の課程を5年で修めた。首都アディスアベバの名門ウィンゲート将軍高校に、全額の奨学金で入り、1972年に優秀な成績で卒業して、皇帝ハイレ・セラシエ1世の名を冠した賞を受けた。1973年からハイレ・セラシエ大学(現アディスアベバ大学)で医学を学んだが、1974年の軍のクーデターを機に学業を断念した。1975年に大学を離れ、反政府組織であるティグレ人民解放戦線に参加した。エチオピア正教会の信徒であった。
1974年から1991年までエチオピアを統治した軍事政権に対し、この戦線は武装して戦っていた。メレスは1979年に指導委員会の委員となり、1983年には執行委員会の議長に選ばれ、1985年にはティグレ・マルクス・レーニン主義連盟を結成した。1989年には戦線の議長を兼ねて、他のゲリラ組織とともに結成したエチオピア人民革命民主戦線の書記長に就いた。1991年5月に、メンギスツ・ハイレ・マリアム率いるエチオピア労働者党の独裁政権を倒し、7月23日に暫定政府の大統領となった。この間にエリトリアの独立の道を開き、1993年の住民投票を経てエリトリアは分離した。1995年に議院内閣制の憲法が制定されると、8月22日に首相に就任した。
15年以上に及ぶ在任でエチオピアを、アフリカで最も急速に経済が成長する国の1つにした。飢饉や前政権の圧政で疲弊した経済を立て直すため、政府企業の民営化、共同農場の廃止、土地法の改革、外国投資法の整備などを進めた。民族連邦主義の考えをエチオピアにもたらそうとした1人でもあり、「経済が成長して同化が進めば、民族性はそれほど問題でなくなるだろう」と述べた。一方で、1998年から2000年にかけてはエリトリアと国境をめぐって戦争になり、多くの犠牲者を出した。2005年の総選挙で勝利したが、野党は選挙が不公正だと強く非難し、アディスアベバで起きた暴動では、警察の暴力により193人が殺されたとされる。政治面では権威主義的な統治を行い、少数民族の抑圧、報道や野党の活動の規制を強め、人権団体からは「アフリカ最大の人権抑圧者」などと非難された。2003年には日本の国士舘大学から名誉博士号を贈られた。2012年1月に、中国の援助で建てられたアフリカ連合本部の落成式に出席し、これを「中国モデルによるアフリカの復興の象徴」と絶賛した。同年8月20日、感染症の治療で滞在していたベルギーで死去した。
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