伝記
エタ・ジェイムズは、1938年1月25日に生まれ、2012年1月20日に没したアメリカ合衆国のブルース、R&Bの歌手である。出生時の名はジェイムセッタ・ホーキンズ。ゴスペル、ブルース、ジャズ、ロックンロール、ソウルなどさまざまな分野で歌い、「ローリング・ストーン」誌が選ぶ史上最も偉大な100人の歌手では第22位に挙げられた。
カリフォルニア州ロサンゼルスで、当時14歳だった母ドロシーのもとに生まれた。父は明らかにされず、本人は1987年に会ったビリヤード選手が父ではないかと推測していた。母は家を空けがちで、彼女は里親や親類、祖父母に育てられ、幼いころからバプテスト教会に通ってゴスペルの合唱団に所属した。5歳で最初の本格的な声楽の指導を受けて、幼いながらソリストとなり、強い声が注目された。1950年、母とともにサンフランシスコに移り、まもなく友人の女性二人と、ボーカル・グループを結成した。14歳のとき、バンドリーダーとして有名なジョニー・オーティスのホテルの部屋を訪ね、その場でオーディションを受けた。出会いには諸説ある。歌ったのは、ハンク・バラードの曲の返歌として作られた「ロール・ウィズ・ミー、ヘンリー」で、オーティスは気に入って、ロサンゼルスのモダン・レコードとの契約に口を利いた。オーティスは、本名の「ジェイムセッタ」を並べ替えて、「エタ・ジェイムズ」という芸名を彼女に付けた。
1954年にこの曲を録音したが、題名が性的なものを連想させるとして「ザ・ウォールフラワー」に変えられた。翌1955年にリリースされると、R&Bチャートの首位になった。しかし、その間にポップ歌手のジョージア・ギブスが彼女の曲をカバーして、全米のチャートで1位となり、彼女は怒った。モダンからは「グッド・ロッキン・ダディ」(同チャート6位)もヒットしたが、後続に苦しんだ。
1960年に、モダンとの契約更新ではなく、チェス・レコードと契約した。レーベルが倒産する1976年まで在籍し、キャリアで最大の成功を収めた。初期は傘下のアーゴからレコードを出し、「アット・ラスト」(1961年)はR&Bチャート2位のヒットとなり、代表曲の一つとなった。ムーングロウズのハーヴィー・フークワとは交際し、デュオでも曲を残した。この当時はポップス色が強かったが、1964年のライヴ・アルバムでは、荒々しくブルースをシャウトする一面も見せた。のちには傘下のカデットに移り、マッスルショールズのスタジオで録音した「テル・ママ」や「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」などの、ソウル色の濃い曲を出した。
チェスの倒産後は複数のレーベルから作品を出したが、印象は薄かった。しかし1988年のアルバムあたりから、再び存在感を示し、1992年にはジェリー・ウェクスラーをプロデューサーに迎え、続く作品ではビリー・ホリデイの曲を歌い、グラミー賞のジャズ・ボーカル賞を受けた。その後2003年と2004年にもブルース部門で受賞した。1993年にはロックの殿堂入りを果たした。キャリアの初期から麻薬中毒と闘い、1990年代以降は極度の肥満にも悩んで、2003年に胃のバイパス手術を受けて、90キロ以上減量した。2008年の映画『キャデラック・レコード』では、ビヨンセが彼女の役を演じた。2011年に新譜を出して引退を表明し、2012年1月、74歳の誕生日を目前に、カリフォルニア州リバーサイドの病院で亡くなった。マネージャーによると、死因は白血病の合併症だった。
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