伝記
リシュリューは、カトリック教会の枢機卿であり、フランス王国の政治家である。本名はアルマン・ジャン・デュ・プレシーといい、1585年9月9日、パリで、ポワトゥーの下級貴族の家の三男として生まれた。父は軍人で宮内裁判所長官として国王アンリ3世に仕えた廷臣、母シュザンヌ・ド・ラ・ポルトは著名な法学者の娘であった。5歳のとき、父がユグノー戦争で戦死し、家には負債が残ったが、国王から恩給が施されたため、貧困には陥らなかった。9歳でパリの学校に入って哲学を学び、その後は軍人を志した。
家は、アンリ4世から与えられたリュソン司教の職の収入をもっぱら私用にあて、聖職者たちから訴えられていた。母は収入源を守るため次男アルフォンスを司教にしようとしたが、彼がカルトジオ会の修道士になることを望んで拒んだため、弟のアルマンが聖職者の道に進むことになった。痩せて虚弱な少年だったが学問を好み、期待に背かなかった。1606年、国王側近の長兄アンリの働きかけで、21歳でリュソン司教に任命された。教会法の定める年齢に達していなかったため、ローマで教皇の特免を受け、1607年4月に叙階された。1608年に司教区に赴くと、プロテスタントが力を持つこの地で改革を布告し、トリエント公会議の教会改革をフランスで最初に実施した司教となった。またカプチン会のジョセフ神父と親交を結び、のちにその腹心となる彼を、リシュリューは外交交渉にしばしば用いた。
1614年の全国三部会に聖職者代表として出席し、教会の免税と司教の政治的権力の向上を主張して、閉会の際には第一部会の演説者に選ばれた。その雄弁は摂政マリー・ド・メディシスと寵臣コンチーニの関心を引き、王妃アンヌ・ドートリッシュの司祭として宮廷に仕えることになった。1616年には国務卿として外交を担当した。しかし1617年、ルイ13世の命でコンチーニが暗殺されてマリーの政権が倒れると、パトロンを失ったリシュリューも罷免され、翌年にはアヴィニョンに追われた。1619年、マリーがブロワ城を脱出して貴族反乱軍の名目上の指導者になると、彼は召還されて母后の説得にあたり、調停に成功した。1622年に枢機卿となり、1624年4月に国務会議の顧問官に加わると、首席国務卿の失脚を企て、8月にその大臣が汚職容疑で逮捕され、リシュリューが代わって宰相となった。38歳であった。
政策の柱は、王権の強化と、ハプスブルク家への対抗であった。「私の第一の目標は国王の尊厳、第二は国家の盛大」と述べたという。1626年に城代の地位を廃止し、国防用を除くすべての城塞の破却を命じ、決闘禁止令に違反した貴族は容赦なく処刑したため、多くの貴族に憎まれた。1627年にはユグノーの拠点ラ・ロシェルの包囲を命じて自ら指揮し、英艦隊の救援は失敗に終わり、1628年に町は降伏した。1629年にはユグノー軍も破られ、ナントの勅令の信仰の自由は認められたが、政治的、軍事的特権は廃止された。同年ルイ13世とともにアルプスを越えてスペイン軍を撤退させ、公爵に列せられた。1630年11月には、母后マリーと王弟ガストンが国王からリシュリュー罷免の確約を得たが、リシュリューは王を説得して支持を取り戻した。1632年にはモンモランシー公の反乱を弾圧し、公の処刑を命じた。国内外にスパイ網も築いた。1635年に「フランス語の純化」を目標にアカデミー・フランセーズを創設し、三十年戦争では、ハプスブルク家に対抗するプロテスタント側で参戦した。1642年12月4日にパレ・カルディナルで没し、ソルボンヌ教会に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- フランス・フランケン2世 (1642年没)
- ゾフィー・ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1642年没)
- マリー・ド・メディシス (1642年没)
- サスキア・ファン・オイレンブルフ (1642年没)
- フリードリヒ・ケトラー (1642年没)
同じ地域に関係する人物
- フランソワ・アンドリュー (1833年没)
- テオデュール・アルマンド・リボー (1916年没)
- フィリップ (ヴァンドーム公) (1727年没)
- ポール・モラン (1976年没)
- デルフィーン・ラローリー (1849年没)