伝記
シャープール2世は、サーサーン朝ペルシア帝国の君主(シャーハーン・シャー)である。309年に生まれ、379年に没した。第9代とも第10代ともされ、先代ホルミズド2世の息子で、生まれながらに王位にあり、死ぬまで70年にわたって在位した。サーサーン朝の歴史で最も長く君臨した君主であり、「大王」とも呼ばれる。アラビア語では、サーブール・ズ=ル=アクターフの名で呼ばれる。
先代が309年に死ぬと、長兄が短い在位ののちに貴族らに殺されたとされる。次兄は目を潰され、三兄は牢獄に閉じ込められた。この三兄はホルミズドといい、のちにローマ帝国へ逃れたという。王位は、まだ生まれていない、あるいは幼児であったシャープールのために空けられた。母の妊娠中の腹に王冠を置いて、生まれる前から君主にしたという伝承があるが、近代の歴史家は創作とみている。幼い王を立てたのは、貴族と神官が帝国の支配を強める手段だったとされ、彼らは王が十六歳で成年に達した325年ごろまで実権を握った。当初の王は貴族の傀儡といってよかったが、やがて貴族の黙認のもとで権力を握っていった。
十六歳のとき、シャープール2世はペルシア湾岸を荒らしていたアラブ遊牧民の討伐に出た。ペルシア湾を渡ってアラビア半島東部に達し、さらに西方のアラビアやシリアの諸都市を攻め、メディナにまで至った。捕虜の肩を刺し貫いたことから、アラブ人にズ=ル=アクターフ(肩の人)と呼ばれたと伝わるが、王位を担う肩の広い人という称号が、後に民間伝承で説明されたものとする説もある。遠征の描写には誇張が多いとみられる。彼はアラブ人の侵入を防ぐため、アル=ヒーラ付近に壁を築かせた。東方では、シャープール1世にならってクシャーン族を討ち、シルクロードを押さえて交易路を確保した。スサの反乱に対しては、町を象に踏み潰させて芽を摘んだが、のちにローマ人捕虜のために市を再興し、イーラーン・フワル・シャープールと名づけた。ニーシャープールなど多くの市も、彼のもとで建設または再建された。
東方と内乱が落ち着くと、シャープールは長い和平を破り、ローマとの戦争に踏み切った。337年のコンスタンティヌス1世の死を挟み、二度の戦役に分かれる26年に及ぶ戦いとなった。ニシビスを三度攻囲しても落とせず、344年のシンガラの包囲戦でも成果は乏しかった。353年から358年には、フン族に押し出されて流れ込んだキダーラ、キオニテ、エフタルらと東方で戦い、のちに和を結んで同盟者とした。359年、遊牧民の援軍を得て、73日間の包囲の末にアミダを陥落させ、優勢を決定づけた。ローマの史家アンミアヌスは、彼が黄金の牡羊の頭を模した王冠を被り、自ら陣頭で軍を指揮したと記している。ユリアヌス帝は363年に出陣し、クテシフォンの戦いで優勢に立ったが戦死した。後継者ヨウィアヌスは、ニシビスやシンガラなど計五つの属州を割譲し、アルメニアから手を引くという大幅な譲歩をした。その後シャープールはアルメニアの親ローマ派の王アルサケス2世を幽閉し、自殺に追い込んだとされる。
宗教政策は厳しかった。ローマとの戦費調達のためにキリスト教徒に倍の税金をかけ、これは339年から死まで続いた。迫害はコンスタンティヌス1世によるキリスト教の国教化への意趣返しでもあったとされる。この時代にゾロアスター教の聖典アヴェスターの編集が完成し、異端が排斥されて、ズルワーン教は排撃された。半世紀を超す在位は貴族の権勢を弱めたが、ローマとの戦いの被害も大きく、その後、貴族の王家への干渉が強くなっていった。
同じ年に亡くなった人物
- カイサリアのバシレイオス (379年没)
- Macrina the Younger (379年)
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