HISTORICAL PERSON · 2011年没

八重樫茂生

岩手県出身の元サッカー選手・監督。中央大学で新人王を獲得したのち早稲田大学へ編入し、関東大学リーグ優勝3回などの成績を残した。

生涯
2011年没
死亡地
日本(東京都 / 多摩市)
出生地
日本(花巻市)
出典
世界地図
日本(東京都)

伝記

八重樫茂生は、1933年3月24日に朝鮮の大田で生まれたサッカー選手、指導者である。出身地は岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)とされ、旧名は茂夫であった。大田中学の1年のときに太平洋戦争が終わり、一家は岩手へ引き揚げた。転校した盛岡中学でサッカーに出合い、盛岡一高では郷里の先輩である工藤孝一の指導を受けた。3年の1951年には高校選手権に東北代表として出場したが、1回戦で高知農業に敗れている。

1952年に中央大学へ進み、同年の関東大学リーグで新人王を獲得した。3年だった1954年には、工藤が監督を務める早稲田大学へ編入した。関東大学リーグ優勝3回、大学選手権優勝1回に貢献し、当時学生ナンバーワンといわれた早大の原動力となって、在学中に日本代表入りした。1956年のメルボルン五輪に出場したが、本大会の1回戦で開催国のオーストラリアに0対2で敗れた。

1958年に古河電気工業に入社し、サッカー部の黄金時代を築いた。自主練習に熱心な姿は、宮本征勝ら後輩も見て真似したという。1960年には西ドイツのデュースブルクで、デットマール・クラマーに初めて指導を受けた。1963年には日本年間最優秀賞を受け、1964年の東京五輪では1次リーグでアルゼンチンに3対2で逆転勝ちするなど、ベスト8進出に貢献した。1965年に日本サッカーリーグが発足すると、ベテランらしい味のあるプレーでチームを引っ張り、1967年には選手兼任監督も務めた。1968年のメキシコ五輪では主将として出場したが、初戦のナイジェリア戦でラフプレーを受けて靱帯を断裂し、残りの試合に出られなくなった。それでも松葉杖をつきながら全18人のユニフォームを一人で洗うなど、選手を支える精神的支柱となり、銅メダル獲得に貢献して「伝説のキャプテン」と呼ばれた。国際Aマッチは45試合に出場して11得点を記録し、1969年に引退した。

引退後は、1970年に日本ユース代表の監督を務め、フィリピンのアジアユース選手権を指揮した。急に監督に指名されたため、実質的なチーム作りは1次合宿を率いた松田輝幸コーチに任せ、全体を見て指示を出す立場をとったという。日本はPK戦の末に準々決勝で香港を破り、10年ぶりにベスト4へ進んだ。翌1971年にはミュンヘン五輪の日本代表コーチとなった。

その後は川崎フロンターレの前身でもある富士通サッカー部で、総監督(1973年から1976年、1989年から1991年)と監督(1977年から1981年、1985年から1988年)を歴任し、チームの基礎を固めた。移籍は、出向していた日本サッカー協会から古河電工に戻る予定のところ、同社が会社員として迎えることしかできず、富士通から話が来たのがきっかけだった。強化のためにスカウトも手がけ、北海道から九州まで知り合いに電話をかけて良い選手を探した。試合では、上手でも気持ちが足りない選手より、下手でも一生懸命な選手を起用したという。指導では、長い放り込みが主流の時代にあえて後ろでつなぐことを求め、プレーの精度にこだわった。

Jリーグ発足後はジェフ市原の育成部長やスーパーバイザーを務め、2005年には第1回の日本サッカー殿堂入りを果たした。2006年からはグルージャ盛岡のスーパーアドバイザーも務めた。2011年5月2日、東京都多摩市の病院で亡くなった。78歳であった。翌日の試合で、ジェフユナイテッド市原・千葉は喪章をつけて臨んだ。

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