伝記
セルゲイ・バガプシュは、1949年3月にグルジア・ソビエト社会主義共和国のスフミで生まれたアブハジア共和国の政治家である。生まれた日は4日とも24日ともいわれる。生涯の大半をアブハジアで過ごし、若いころはグルジアのバスケットボールチームに所属した。スフミのグルジア亜熱帯経営大学を農学専攻で卒業し、在学中は、ワイン工場で働き、のちに国営銀行の集金人や警備員も務めた。1972年に兵役を終えると、モクフスクの製油ソフホーズの農業課長を務めた。軍務を経たのち、コムソモールの仕事に入り、アブハジア州委員会の教官となった。
1978年にグルジア中央執行委員会の情報班副班長、労働・農業青年課の主任となり、1980年にはコムソモールのアブハジア州委員会の第一書記を務めた。1982年には、グルジア共産党のオチャムチレ地区委員会の第一書記に就いた。ソ連崩壊後は実業家となり、アブハジア政府のモスクワ代表も務めた。1992年にアブハジア自治ソビエト社会主義共和国の閣僚会議副議長、1993年には閣僚会議第一副議長、1995年に第一副首相となった。1995年11月9日には、襲撃を受けて重傷を負っている。1997年4月29日から1999年12月20日まで首相を務め、その任期中の1998年5月にはグルジアの武装勢力による独立国家共同体の平和維持軍への攻撃をきっかけに、双方の緊張が高まり、「6日間戦争」と呼ばれる戦いとなった。アブハジア軍が武装勢力を排除し、3万人のグルジア系住民が逃れたとされる。
1999年から2004年まで、国営会社チェルノモルエネルゴの社長を務め、この期間に2004年の大統領選挙の有力な野党の候補として浮上した。2004年の初めに新たな野党の統一アブハジアの指導者3人の一人となり、7月には別の野党アムツァハラと共闘して、共同の候補に指名された。ラウル・ハジンバとの争いとなった10月の選挙は、結果をめぐって混乱し、中央選挙管理委員会はハジンバの勝ちとしたが、最高裁判所は、バガプシュが50.3パーセントを得て実際には勝ったと認定した。ハジンバの支持者が裁判所に乱入すると、決定は覆された。12月初めに2人は、バガプシュが大統領、ハジンバが副大統領となる連名の候補で合意し、2005年1月12日の再選挙で大勝した。2月12日に大統領に就任した。選挙後にロシアがアブハジアからの輸入を禁止し、ミカンの積み荷が国境で腐ったことから、この政治危機は「ミカン革命」とも呼ばれた。
2008年8月のロシアとグルジアの戦争の後、アブハジアはコドリ渓谷を支配下に置き、ロシア、ベネズエラ、ニカラグアから国家として承認された。承認の後はロシア企業が不動産やエネルギーなどに大規模に投資し、2014年の冬季オリンピックを前に、民営化を急ぐよう圧力がかかった。野党は資産を売り払っていると非難した。2009年12月の選挙では、アレクサンドル・アンクヴァブを副大統領候補として再選された。2011年5月、肺癌が見つかり、29日にモスクワの病院で手術中に心不全を起こして急死した。スターリンが建てた別荘を大統領邸宅として使っていた。妻帯し、1男1女がいた。
同じ年に亡くなった人物
- マンフレート・ゲルラッハ (2011年没)
- ロナルド・サール (2011年没)
- 朴英碩 (2011年没)
- ジョセフ・ガリバルディ (2011年没)
- サティヤ・サイ・ババ (2011年没)
同じ地域に関係する人物
- アブラム・アリハノフ (1970年没)
- アナトリ・ブラゴヌラーヴォフ (1975年没)
- イサーク・ゼレンスキー (1938年没)
- カラ・カラーエフ (1982年没)
- レフ・オシャーニン (1996年没)