伝記
ムアンマル・アル=カッザーフィーは、1942年6月7日にリビアのスルトで、砂漠に住むベドウィン、カッザーファ部族の子として生まれた軍人、政治家である。日本では「カダフィ大佐」の呼称で知られている。ムスリムの学校で初等教育を受け、ミスラタの中等学校を卒業した。第一次中東戦争の影響を受け、エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセルが率いたエジプト革命に魅せられて、アラブの統一による西洋への対抗を志すようになった。1956年のスエズ危機には、反イスラエル運動に参加した。
1961年にベンガジの陸軍士官学校に進み、在学中から仲間たちと、サヌーシー朝の王家を倒す計画を立て、自由将校団を組織し始めた。1965年に卒業するとイギリスへの留学を命じられ、1年後に帰国して通信隊の将校となった。1969年9月1日、同志の将校たちとともに首都トリポリでクーデターを起こし、政権を握った。病気療養のためにトルコに滞在していた国王イドリース1世は廃位され、王政は崩れた。新政権は共和政を宣言し、国名を「リビア・アラブ共和国」とした。11月に公布された暫定憲法で、カッザーフィーを議長とする革命指導評議会が、最高の政治機関と定められた。軍人としての階級はもともと中尉だったが、革命のあと、ナーセルにならって大佐となった。のちには「私はもう軍人ではないので大佐と呼ばないでほしい」と述べたとされる。
1973年から「文化革命」を始め、イスラームとアラブ民族主義、社会主義を融合した、独自の「ジャマーヒリーヤ」という国家体制の建設を進めた。翌年には、政治理論の研究に専念するためとして、革命評議会議長の権限をジャルード少佐に委ねた。1976年には、毛沢東語録にならって自身の思想をまとめた『緑の書』を出版した。1977年に人民主権の確立を宣言して「ジャマーヒリーヤ」を国家の指導理念とし、国名を改めた。全国人民会議が最高機関となり、カッザーフィーは初代書記長に就いた。1979年に書記長を辞して公職を退いたが、「革命指導者」の称号のもとで、実質的な元首としてリビアを指導した。
対外的には、ナーセルの汎アラブ主義の後継者を自任した。1972年にはエジプトのサーダート、シリアのアサドと、アラブ共和国連邦を構想したが、5年後に解消した。パレスチナ解放機構の有力な支持者でもあり、1979年にサーダートがイスラエルと和平すると、エジプトとの関係は決定的に悪化した。西アフリカを中心に、資金援助を通じて影響力を保ち、サヘル・サハラ諸国共同体も創設した。欧米との関係は常に対立的で、1984年の駐英リビア大使館員のデモ警備をしていた英国警官の射殺事件や、1986年の西ベルリンのディスコ爆破事件などで、テロ支援の疑惑を受けた。これに対してアメリカは、1986年にカッザーフィーの居宅を狙って空爆を行ったが、本人は外出していて難を逃れた。1988年のパンナム機爆破事件はリビアの諜報機関員によるものとされ、容疑者の引き渡しを拒んで、国連の制裁を受けた。
冷戦後は態度を変え、1999年に容疑者を引き渡し、2003年には総額27億ドルの補償に合意した。2003年末には核放棄を宣言し、2006年5月にアメリカとの国交の正常化が発表された。2009年7月のラクイラ・サミットでは、オバマ大統領と握手を交わした。しかし2011年のリビア内戦で政権は打倒され、2011年10月20日、反カッザーフィー派の部隊によって殺害された。1993年から2009年までは、1リビア・ディナール紙幣などに、その肖像が使われていた。
同じ年に亡くなった人物
- アニー・ジラルド (2011年没)
- ヴァルテル・ボナッティ (2011年没)
- ボ・カルペラン (2011年没)
- ハーモン・キルブルー (2011年没)
- ロナルド・サール (2011年没)
同じ地域に関係する人物
- アル=ムアタシム=ビッラーフ・アル=カッザーフィー (2011年没)