伝記
フェルディナント2世は、1578年7月9日、グラーツの城で、内オーストリア大公カール2世と、妃でバイエルン公家出身のマリア・アンナの間に生まれた。両親は叔父と姪の関係にあり、この結婚はハプスブルク家とバイエルン家という二大カトリック家の和解をもたらした。教育は主に母が取り仕切り、8歳でグラーツのイエズス会の学校に入った。1590年の初め、ルター派の貴族から引き離すため、バイエルンのインゴルシュタットにあるイエズス会の学院に送られた。使徒パウロの言葉をとった標語を自ら選んで、グラーツを出たという。数か月後の1590年7月10日に父が急死し、シュタイアーマルクなどの領地を継いだが、当初は従兄の皇帝ルドルフ2世が任じた摂政が統治した。1596年から翌年にかけて、実際の統治者となり、1598年から厳しい反宗教改革の政策を進め、プロテスタントの牧師や教師を追放した。
ルドルフ2世とマティアスの兄弟争いでは、はじめマティアスを支持したが、彼がプロテスタントに譲歩したことに憤慨した。1617年、スペイン王フェリペ3世の承認を得て、子のないマティアスの後継者と認められた。1618年、プラハ窓外投擲事件が起こり、ボヘミアの反乱が三十年戦争のきっかけとなった。1619年にマティアスが死去して神聖ローマ皇帝に選出されたが、ボヘミアの反乱軍は、プロテスタント同盟の盟主であるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を王に選び、対立は深まった。1620年には、カトリック連盟の盟主バイエルン公マクシミリアン1世と協力し、白山の戦いでティリー伯指揮下の連合軍が勝利してボヘミアのプロテスタント勢力に大打撃を与えた。戦後はプロテスタントを弾圧してボヘミアに絶対君主制を確立し、ハプスブルク家の所領の分割相続を長子相続に切り替え、オーストリアの一体化をほぼ実現させた。
しかし1623年にフリードリヒ5世から選帝侯位を取り上げてマクシミリアン1世に与えたことなどは、諸侯の反発を招き、1625年にはデンマーク王クリスティアン4世が北から侵入した。皇帝はヴァレンシュタインを召喚して軍を編成し、これを撃破したが、その略奪は諸侯の不満を招いた。1629年の復旧令は、プロテスタントが没収したカトリック教会領の返還などを定め、プロテスタントだけでなくカトリック諸侯からも反対された。1630年の帝国議会で、ヴァレンシュタインを罷免しなければ息子フェルディナント3世のローマ王選出を拒否すると通告され、皇帝は彼を解任した。同年にスウェーデン王グスタフ2世アドルフが北ドイツに侵入し、窮地に陥った皇帝はヴァレンシュタインを再召喚した。しかし彼が交渉に走ったことから反逆を疑い、1634年に暗殺命令を下して実行させた。
1635年にはプラハ条約で復旧令の撤回と引き換えに諸侯と和解し、1636年にフェルディナント3世のローマ王選出も実現させたが、1635年にフランスが本格的に参戦しており、スウェーデン軍の抵抗も続いて劣勢となった。戦局を打開できないまま、1637年2月15日に死去した。1600年にマリア・アンナと結婚して7人の子が生まれ、1622年にエレオノーラ・ゴンザーガと再婚した。
同じ年に亡くなった人物
- ボギスラフ14世 (ポメラニア公) (1637年没)
- ヴィルヘルム5世 (ヘッセン=カッセル方伯) (1637年没)
- ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク (1637年没)
- テオドール・ロンバウツ (1637年没)
- Cornelius a Lapide (1637年没)
同じ地域に関係する人物
- カール・フォン・ブラース (1894年没)
- カール・ザイツ (1950年没)
- カール・ミヒャエル・ツィーラー (1922年没)
- ステファン・サルコチッチ・フォン・ロヴチェン (1939年没)
- カール・ヴィトゲンシュタイン (1913年没)