HISTORICAL PERSON · 2010年没

ウマル・ヤラドゥア

ナイジェリアの政治家。カツィナ州知事として経済・財政改革などに取り組み、前任者に後継指名されて2007年に大統領に就任した。フラニ族の有力な家系の出身だった。

生涯
2010年没
死亡地
ナイジェリア連邦共和国(連邦首都地区 / Nigerian Presidential Complex)
出生地
ナイジェリア連邦共和国(カツィナ)
出典
世界地図
ナイジェリア連邦共和国(連邦首都地区)

伝記

ウマル・ムサ・ヤラドゥアは、1951年にナイジェリア北部のカツィナで生まれた政治家で、フラニ族の出身である。生まれた日は7月9日とも8月16日ともされる。父ムサ・ヤラドゥアは、ナイジェリア第一共和制の全期間にわたって連邦大臣を務めた人物で、カツィナ首長国の財務官を意味する「マタワッレ」の称号を持っていた。若いヤラドゥアもこの称号を受け継いだ。父方の祖母は、カツィナの首長ムハンマドゥ・ディッコの姉妹だった。ラフッカ小学校、ドゥツィンマの寄宿制小学校、ケフィの国立高校、バレワ高校を経て、1972年から1975年にザリアのアフマド・ベロ大学で学び、教育と化学の学位を得た。1978年に再び同大学に戻り、1980年に分析化学の修士号を取得している。

卒業後は、1975年から1976年にラゴスの学校で教え、その後カツィナの芸術科学技術カレッジやカツィナ・ポリテクニクで教壇に立った。1983年からは民間に移り、フントゥアの農場会社で初代の総支配人を務めるなど、複数の企業で役員を務めた。大学時代には、マルクス主義の歴史家ユスフ・バラ・ウスマンが率いる急進的な学生グループに加わっていたといわれる。のちに兄の少将シェフ・ムサ・ヤラドゥアが率いる政治団体に参加し、これは社会民主党の母体になった。1988年の憲法制定会議の議員となり、社会民主党のカツィナ州書記を務めた。1991年の州知事選挙には立候補したが敗れた。アバチャ将軍の時代には、兄が獄中で殺害された。

1998年に、州内の34の地方自治区を象徴する政治団体を結成し、1999年の知事選挙に挑んで当選した。1999年5月29日から2007年5月28日まで、カツィナ州の知事を務めた。教育と医療を中心とする社会経済の開発に力を入れ、州の巨額の負債を返済して、財政に5,000万ドルの黒字をためたといわれる。就任直後に自分の資産を公表し、ナイジェリアの州知事で初めてそうした人物となり、透明性でも知られた。2003年に再選された。州は2000年8月に、シャリーアを導入した北部の州の一つとなったが、2002年にある女性に石打ちの刑が言い渡され、のちに覆された。

2006年に副大統領アティク・アブバカルが与党の国民民主党から追放された後、12月の党大会で、オルシェグン・オバサンジョ大統領に後継として指名された。2007年4月21日の大統領選挙では、全ナイジェリア人民党のムハンマド・ブハリの4倍近い得票で当選した。国際選挙監視団は、不正投票や票の水増し、投票所の襲撃を挙げて有効性を疑ったが、5月29日に大統領に就任した。有力候補がともにフラニ族だったため、この選挙は「フラニ・コンテスト」とも呼ばれた。オバサンジョの傀儡とみる見方と、清廉な印象で国民の評価を得たとする見方がある。

2010年1月13日、心臓病の治療のためサウジアラビアの病院に入院し、50日にわたり大統領が不在となって、国政に混乱が生じたと報じられた。このため2月9日、大統領の権限が副大統領のグッドラック・ジョナサンに委譲された。2月24日にナイジェリアに戻ったが、4月には会話が難しい状態だったと報じられ、2010年5月5日に、大統領官邸で亡くなった。

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