伝記
ルイーズ・ジョゼフィーヌ・ブルジョワは、1911年12月25日、フランスのパリで、三人きょうだいの真ん中として生まれた。両親のジョゼフィーヌ・フォリオーとルイは、古いタペストリーを扱う画廊を営んでいた。彼女の誕生から数年後、一家はパリを離れ、シュワジー=ル=ロワの住まいの下階にタペストリーの修復の工房を設け、彼女はすり切れた箇所の図柄を描き足して手伝った。1930年にソルボンヌ大学に入り、数学と幾何学を学んだ。それらを、変えようのない規則にだけ従うから心の平穏が得られる、と評価していた。1932年に母が亡くなり、このことをきっかけに数学をやめて、美術を学び始めた。英語を話す学生の通訳が必要な授業に通訳として加わると、授業料がかからなかった。そうした授業でフェルナン・レジェが作品を見て、彼女は画家ではなく彫刻家だと言った。ルーヴル美術館では案内役の仕事にも就いた。
1935年にソルボンヌ大学を卒業した。エコール・デ・ボザールやルーヴル学院で学び、モンパルナスやモンマルトルの私立のアカデミーにも通い、レジェ、アンドレ・ロートらのもとで技法を学んだ。しかし、のちに、当時の巨匠が女性の芸術家を認めようとしなかったことなどから、男性の天才を中心とする美術界の考えに幻滅した。1938年には、父の画廊の隣に自分の画廊を開き、そこで客として訪れたアメリカの美術史家ロバート・ゴールドウォーターと出会った。二人は結婚し、同年にニューヨークへ移った。三人の息子がおり、そのうち一人は養子であった。結婚生活は、1973年に夫が亡くなるまで続いた。ニューヨークではアート・スチューデンツ・リーグで絵画を学び、彫刻や版画も作った。1940年代前半は、新しい国での生活への移行と、ニューヨークの展覧会の世界に入る努力とに苦労した時期で、廃品置き場の屑や流木から、立ち上がる木彫を作った。1945年に最初の個展を開き、同年、ペギー・グッゲンハイムの画廊での女性芸術家14人の展覧会にも出品した。この展覧会は議論を呼んだが、彼女は「女性の作った美術とは何かわからない」と述べた。1951年に父が亡くなると、アメリカ市民権を得た。
自身の少女時代に着想を得たフェミニズム的な作品が多い。主題は家庭と家族、性と身体、死と無意識などであった。抽象表現主義の画家たちと並んで展示し、シュルレアリスムやフェミニズム美術と共通する点が多いが、特定の運動には属さなかった。作品を貫くのは、自分の悩み多い過去を振り返ることであり、子ども時代から着想と一時的な浄化を得たという。長く注目されなかったが、1982年にニューヨーク近代美術館で個展が開かれ、再評価されるようになった。1990年代からは、巨大な蜘蛛をかたどった「ママン」を制作し、ブロンズ像の複数の版が、ニューヨーク、オタワ、ビルバオ、ロンドン、サンクトペテルブルク、ソウル、東京など、9か所に展示されている。1993年のヴェネツィア・ビエンナーレではアメリカ館で展示し、1995年には彼女を追った記録映画が作られた。1999年に高松宮殿下記念世界文化賞の彫刻部門を受賞した。2010年5月31日、心臓発作のためマンハッタンで亡くなった。
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