HISTORICAL PERSON · 2010年没

アルギルダス・ブラザウスカス

リトアニアの政治家。共産党の独立派を率いて党の一党独裁放棄とソ連共産党からの分離を進め、独立回復後は最高会議議長を務め、首相や大統領にも就いた。

生涯
2010年没
死亡地
リトアニア共和国(ヴィリニュス郡 / ヴィルニュス)
出生地
リトアニア共和国(ロキシュキス)
出典
世界地図
リトアニア共和国(ヴィリニュス郡)

伝記

アルギルダス・ミーコラス・ブラザウスカスは、1932年9月22日、独立期のリトアニア北部のロキシュキスに生まれた政治家である。家は18世紀から続く村にさかのぼり、父カジミエラス、母ソフィヤの子である。1940年にリトアニアがソ連に併合されると、ソ連の体制のもとで成長した。1952年にカイシャドリス高校を卒業し、1956年にカウナス工科大学で土木工学の学位を得て、その後ソ連海軍に徴兵され、1960年まで護衛艦で射撃管制員を務めた。1974年には経済学の博士号を得ている。1965年から、リトアニア共産党と政府の要職を歴任し、建設資材産業大臣、国家計画委員会の副議長、1977年から1987年まではリトアニア共産党中央委員会の書記を務めた。最初の妻ユリヤとの間に二人の娘がおり、離婚後の2002年にクリスティナ・ブトゥリミエネと再婚した。

1980年代に、党官僚から穏健な改革派へと変わっていった。生来慎重な性格とみられ、ソ連で民族主義の高まりに直面しても、はじめはソ連が、共産主義を保つ独立国の緩やかな連邦に作り直されるかもしれないと考えていた。しかし独立と民主主義の流れを見て改革の側に加わり、1990年には「いまの私たちは現実主義者であり、空想的な考えを広めることはできない。共産党に汚れた歴史があるのは秘密ではない」と述べた。ゴルバチョフのペレストロイカのもとで、リトアニアでも独立の気運が高まるなか、1988年10月にリトアニア共産党第一書記に就任した。第一書記としての彼は、一党独裁と民主集中制の放棄を表明し、ソ連共産党からの分離を進めた。1989年にはモスクワとの関係を正式に断ち切ったが、旧ソ連で、現地の共産党がこの段階に踏み込んだ例はほかになく、後にソ連崩壊の不可避を示す最初の確かな兆候だったとみる歴史家もいる。1990年1月から3月にかけて最高会議幹部会議長を務めた。

独立の回復後は、共産党独立派が改組した民主労働党の党首となり、1990年に副首相、1992年に最高会議議長などを務めた。1992年の議会選挙は1938年以来初めてのもので、これを経て議会議長となり、11月25日に大統領代行を務めた。1993年、大統領制の導入にともなう選挙に出馬し、1回の投票で約6割の票を得て当選し、2月25日に就任した。ソ連崩壊後初の民主的に選ばれた大統領で、第4代にあたる。憲法が大統領の党員資格を認めないため、民主労働党の党籍は停止した。在任中は、憲法上の権限の範囲にとどまって政治への直接の介入を避けつつ、危機のときには姿を現して政府に行動を求める姿勢だったと評される。首相に推したシュレジェヴィチュスが1995年に銀行の破綻をめぐる疑惑に巻き込まれると、突然の辞任要求に踏み切った。北大西洋条約機構と欧州連合への加盟を支持し、ロシアとは実務的な関係を重んじた。1993年初めには、ロシアが自国軍の撤退をめぐる交渉を止めるなど、外交上の危機も起きた。1998年に大統領を辞任した。

2001年に社会民主党の党首となり、同年から首相を務めた。2006年6月、連立内の内紛から首相を辞任した。2010年6月26日、前立腺癌のためヴィリニュスで亡くなった。

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