伝記
ジョン・ベネット・フェンは、1917年6月15日にニューヨーク市で生まれ、ニュージャージー州のハッケンサックで育ったアメリカの分析化学者である。父はいくつもの職を転々とし、短期間、フォッカー航空機会社で製図工として働いた。そのころ会社の格納庫に、リンドバーグの機体スピリット・オブ・セントルイス号が一時的に置かれ、10歳のフェンはその操縦席に座って、操縦士になった気分を味わったという。世界恐慌で家計が悪化すると、ベリア大学の教員をしていた叔母ヘレン・ディングマンの助けを借りてケンタッキー州ベリアに移った。15歳で高校の課程を終えたが、大学に入るには若すぎると考え、さらに1年、追加の授業を受けた。ベリア大学で学士号を取り、夏にはアイオワ大学で有機化学を、パデュー大学で物理化学を学んだ。大学院進学を考えていたとき、ハーバード大学の化学教授ヘンリー・ベントから、数学の授業を増やすよう助言された。のちに成功を収めてからも、数学の力の不足が自分の仕事の妨げだったと感じていた。イェール大学とノースウェスタン大学から助手の職の申し出を受け、イェールに進んで、ヨースタ・オーケルロフのもとで物理化学を学んだ。1940年に博士号を取得し、その論文は45ページで、文章の部分はわずか3ページだったという。
卒業後は最初にモンサント社に入り、リン酸の部門でポリ塩化ビフェニルの製造にあたったが、同僚のジェームズ・マレンとともに仕事の方向に失望し、1943年に退社した。小さな化学会社を経て、1945年にはマレンの新しい会社で研究開発に取り組み、1949年に最初の論文を発表した。博士号を取って10年後の論文は、研究者には珍しい例であった。1952年にはプリンストン大学へ移り、海軍研究局が資金を出したジェット推進の研究を支える計画のディレクターとなって、超音速の原子線・分子線の源の開発を始めた。その後、1967年にイェール大学に戻り、化学科と工学科を兼ねて、1987年に定年を迎えるまで研究を続けた。この間に、ノーベル賞の受賞理由となった仕事を成し遂げた。定年後は名誉教授として研究室の大半と助手を失い、イェールとの間で、定年や、自分が発明したエレクトロスプレーイオン化法の権利をめぐって争いになった。
1994年からバージニア・コモンウェルス大学で分析化学の教授となり、のちに工学科の教授も兼ねて、亡くなるまで在籍した。80代になっても実験室で研究するのを喜んだ。エレクトロスプレーイオン化法は、生体物質を質量分析する上で欠かせない技術で、薬の候補となる複雑な化合物の評価が飛躍的に速くなり、1990年代にはエイズ薬の開発が進んだ。この功績で2002年、田中耕一らとともにノーベル化学賞を受賞した。同年には、生体分子技術の業績に対し、生体分子資源協会賞も受けた。この方法の特許をめぐるイェール大学との裁判では、2005年に大学側が勝訴し、約100万ドルと部分的な特許権が認められた。この裁判では、技術の有用性について大学に誤解を与えたと認定されたともされ、長く在籍した大学の処遇に戸惑う声も出た。2010年12月10日に、バージニア州で死去した。
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