伝記
マーシャル・ウォーレン・ニーレンバーグは、1927年4月10日、ニューヨークに生まれたアメリカ合衆国の生化学者、遺伝学者である。ユダヤ系の家庭に育ち、父ハリーはシャツの仕立屋、母はミネルバといった。子供のころにリウマチ熱を患い、亜熱帯の気候を求めて、一家はフロリダ州オーランドに引っ越した。早くから生物学に興味をもち、フロリダ大学で動物学を専攻して、1948年に学士号、1952年に修士号を取得した。修士の研究では、トビケラの生態と分類を調べた。そして1957年にミシガン大学で生化学の博士号を取得した。
1957年にアメリカ癌学会のフェローとして国立衛生研究所に入り、1959年に同研究所の生化学者になって、DNAからRNA、タンパク質へと至る流れを調べはじめた。1959年までに、アベリー、クリック、ワトソンらの研究で、遺伝情報を担う分子がDNAだと明らかになっていたが、DNAの情報がどのようにタンパク質に伝わり、RNAがどんな役割を担うのかは分かっていなかった。彼は同研究所のハインリッヒ・マッシーとともに、この問題に答えようとした。二人はウラシルだけでできたRNAを人工的に作り、DNAやRNA、リボソームなどタンパク質合成に必要な装置を含む大腸菌の抽出液に加えた。余分なDNAを分解する酵素を加え、さらに放射性の標識をつけたアミノ酸を1種類と、標識のないアミノ酸を19種類加えた。放射性のフェニルアラニンを含む抽出液だけで、できたタンパク質に放射能が見られた。この実験で、遺伝暗号のUUUがフェニルアラニンを意味することが示された。これはコドンの解読の第一歩であり、伝令RNAの役割を初めて示した実験でもあった。
1961年8月、モスクワの国際生化学会議で、少人数の科学者を前に最初のコドンの解読を報告した。聴衆にいたマシュー・メセルソンは、講演が終わると思わず彼を抱きしめ、フランシス・クリックに結果を伝えた。クリックは翌日、はるかに大きな聴衆の前で再び講演するよう彼を招き、千人を超える会議の参加者の前で語った発表は、科学界に衝撃を与えた。数年のうちに、アデニンだけからなるAAAはリシン、シトシンだけからなるCCCはプロリンを指定し、グアニンだけからなるGGGは何もコードしないと明らかにした。次の突破口は、研究室の大学院生フィリップ・リーダーがもたらした。彼は運搬RNAの配列を決める方法を考案し、これによってコドンの解読が一気に進み、50のコドンの解読が終わった。コラナの実験が結果を検証して、遺伝暗号は完全に明らかになった。この功績で、ニーレンバーグは1968年に、ロバート・ホリー、ハー・ゴビンド・コラナとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。
1962年に生化学遺伝学部門の責任者となり、1964年にリンドン・ジョンソン大統領から国家科学賞を授けられた。1961年にブラジルのリオデジャネイロ出身の化学者ペロラ・ザルツマンと結婚した。ペロラは2001年に亡くなり、2005年にコロンビア大学の疫学の教授ミルナ・ワイスマンと再婚した。2001年にはアメリカ哲学会の会員に選ばれた。のちには神経科学やホメオボックス遺伝子の研究も手がけた。2010年1月15日、数か月の闘病ののち、癌のため亡くなった。
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