伝記
ヴィクトル・ステパノヴィチ・チェルノムイルジンは、1938年4月9日、ソビエト連邦のロシア共和国オレンブルク州に、労働者の子として生まれた。ほかに4人の兄弟がいた。1957年に学校を卒業すると、オルスクの石油精製工場で機械工として働いた。同年から1960年まで陸軍に入り、予備役大佐の階級で除隊した。除隊後は工場に戻り、1962年からクイビシェフ工科大学に入学して1966年まで在籍し、1972年には全連邦通信制工業大学の経済学部を卒業した。1961年にソ連共産党に入党し、翌年から1973年まで、オルスク市の党委員会で産業部長を務めた。一貫して天然ガスなどのエネルギー関係を歩み、1973年にはオレンブルク・ガス精製工場の支配人となり、1978年には党中央委員会の重工業部に配属された。
1982年にソ連石油ガス工業省の次官に任命され、1983年にはチュメニ州でガスプロムの前身にあたる企業合同の支配人を兼ねた。このころ、スヴェルドロフスク州党委員会の第一書記だったボリス・エリツィンと知り合った。1984年から89年までソ連最高会議の議員に選ばれ、1989年にはガス工業省内に国営コンツェルンのガスプロムを創設して、同年8月にその社長に選ばれた。天然ガス企業として世界最大規模を誇る会社である。1991年にソ連の8月のクーデターが失敗してソ連崩壊が決定的になると、共産党を離党した。ソ連が崩壊すると、ガス部門の旧ソ連の資産は新しい国営企業に移ったが、ロシアのガスプロムは国内の資産を維持し、独占を確保した。
1992年5月にロシア政府の燃料エネルギー担当の副首相に任命された。エリツィンはガイダルらを登用して急進的な市場経済の導入を進めたが、ショック療法によってロシア経済は激しいインフレに見舞われ、低所得者や年金生活者を中心に支持を失った。エリツィンは新たな支持基盤として民営化で生まれた新興財閥に注目し、その代表であり、穏健な経済改革を唱えていたチェルノムイルジンを登用することにした。1992年12月14日の人民代議員大会で、エリツィンは彼を首相に任命する法令に署名し、チェルノムイルジンは議会選出による初のロシア連邦首相となった。1993年9月に議会の解散をめぐりルツコイ副大統領らが立てこもると、大統領令を支持し、武力による鎮圧に踏み切った政府の側に立った。前任のガイダルには批判的だったが、政策は多く引き継いだ。米国のゴア副大統領とともに、米ロの協力を話し合う委員会の共同議長を務め、両国が新しい宇宙ステーションを建設する計画を発表した。
1995年6月、バサエフ率いる武装集団がブジョンノフスクの病院で1500人以上を人質にとると、バサエフと交渉して人質の解放と引き換えにチェチェンでの軍事行動の停止に同意した。この対応は国民の印象に残り、彼はロシアで最も人気のある政治家の一人となった。1995年に与党のブロック「我が家ロシア」を創設した。1996年のエリツィンの再選に貢献し、同年11月、エリツィンが心臓手術を受けた間の約23時間、大統領代行を務めた。しかし1998年3月に突然、大統領令で首相を解任された。同年8月にエリツィンは彼を首相代行に再び起用したが、下院は2度にわたり承認を否決し、再登板は絶たれた。1999年にはユーゴスラビア紛争調停のため大統領特使として派遣された。2001年に駐ウクライナ大使に任命され、2009年に解任されて大統領顧問となった。2010年11月3日、モスクワの病院で、重いがんと急性腎不全を背景とする心筋梗塞により、72歳で亡くなった。
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