伝記
ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーは、1919年1月1日にニューヨークのマンハッタンで生まれ、2010年1月27日に没したアメリカ合衆国の小説家である。『ライ麦畑でつかまえて』などで知られる。
父ソルはリトアニア系ユダヤ人で、チーズなどを輸入する貿易会社の経営者だった。母マリーはスコットランド・アイルランド系のカトリック教徒の娘で、宗教の違う結婚への非難を避けるため、名前をユダヤ人風のミリアムに改めた。1932年に寄宿制のマークバーニ校に入り、当時のアメリカでは反ユダヤ主義が強まっており、ユダヤ人風の名を持つ彼は周囲に溶け込めず、学業不振を理由に1年で退学になった。その後、ペンシルベニア州のヴァリー・フォージ陸軍士官学校に入り、卒業まで過ごした。消灯後の寮で、毛布に包まって懐中電灯の明かりで小説を書き始めたという。ニューヨーク大学に進んだが、一年で中退している。
1936年に、家族に小説家になると告げたが、父は反対し、貿易会社を継がせるつもりで、オーストリアやポーランドの畜産農場や屠殺場で働かせた。この経験から、彼は父の会社を継ぐことを拒むようになった。1939年春、コロンビア大学の夜間授業に通い、文芸誌『ストーリー』の編集長ウィット・バーネットの創作講座を受けて、大きな影響を受けた。1940年に処女作『若者たち』を『ストーリー』に掲載し、原稿料はわずか25ドルだったが、これで商業作家としてデビューした。1941年には『ザ・ニューヨーカー』への掲載が決まったが、太平洋戦争の開戦で無期延期となり、結局1946年に載った。この作品に、ホールデン・コールフィールドが初めて登場する。
1942年にアメリカ陸軍に入隊し、1944年6月、第4歩兵師団第12歩兵連隊の一兵士としてノルマンディー上陸作戦に参加して、激戦地のユタ・ビーチに上陸した。同年12月にはバルジの戦いに、その後はヒュルトゲンの森の戦いに従軍した。連戦で、彼の連隊は3080人のうち2517人が戦死していた。パリの解放後、新聞特派員のアーネスト・ヘミングウェイと知り合い、ヘミングウェイは、彼が書いた短編を読んで才能を認めたという。1945年4月、強制収容所を解放する任務に参加し、ホロコーストを目の当たりにした。ドイツの降伏後は戦闘神経症と診断されてニュルンベルクの陸軍病院に入院し、入院中に知り合ったドイツ人女性医師と結婚した。1945年11月に除隊した。作中で戦争の過酷さを多く描いたが、自分の経験として直接言及することはなかった。
1945年12月、『ライ麦畑でつかまえて』の原型となる作品が雑誌に掲載された。1949年ごろからコネチカット州ウェストポートに家を借りて執筆に専念し、1950年秋に完成させた。ハーコート社は「狂人を主人公にした作品は出版しない」と拒んだが、リトル・ブラウン社から1951年に刊行された。賛否両論があり、保守層からは激しい非難を受けたが、主人公ホールデンは同世代の若者に圧倒的な人気を得て、2007年までに全世界で6000万部以上が売れたとされる。成功で静かな暮らしが難しくなった彼は、1953年にニューハンプシャー州コーニッシュの土地を買って移り住み、「隠遁した小説家」と報道されるようになった。1953年に『ナイン・ストーリーズ』、1961年に『フラニーとゾーイー』を発表し、1965年6月の『ニューヨーカー』掲載作を最後に、作品の発表を止めた。2010年1月27日、自宅で老衰のため91歳で亡くなった。
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