HISTORICAL PERSON · 2010年没

ネストル・キルチネル

アルゼンチンの政治家。パタゴニアのサンタクルス州出身で、第50代大統領を務め、南米諸国連合の初代事務局長にもなった。

生涯
2010年没
死亡地
アルゼンチン共和国(サンタクルス州 / エル・カラファテ)
出生地
アルゼンチン共和国(リオ・ガジェゴス)
出典
世界地図
アルゼンチン共和国(サンタクルス州)

伝記

ネストル・カルロス・キルチネルは、1950年2月25日にアルゼンチン南部パタゴニア地方のサンタクルス州リオ・ガジェゴスで生まれた政治家で、第50代大統領を務めた。3人きょうだいの2番目で、父はスイス系の家柄の郵便局員、母はチリのプンタ・アレーナス出身でクロアチア系移民の血を引いていた。ペロン党の青年組織に参加し、1966年から1973年までの軍事政権への反対運動にも加わった。1970年代初めにラ・プラタ国立大学で法学を学び、弁護士となった。1974年にこの大学でクリスティーナ・フェルナンデスと知り合い、翌1975年に結婚している。1976年の中ごろ、軍事独裁のもとで夫婦はリオ・ガジェゴスに移り、自分たちの法律事務所を開いた。1970年代後半には、軍事政権により2度投獄された。

1983年に民政に復帰すると、州政府の社会保障部門の長に就いたが、翌年、財政方針をめぐって州政府と対立して更迭された。1987年にリオ・ガジェゴス市長に当選し、1991年にはサンタクルス州知事に当選した。州のインフレや財政赤字、高失業率の改善に成功して注目を集めた。当時の大統領は同じペロン党のカルロス・メネムだったが、新自由主義経済に批判的で、州の財政再建よりも地域の経済刺激策を重視し、人権問題については急進派だった。1995年に州知事に再選され、メネム大統領との対立は深まった。1998年、憲法を改正して3期目を目指したメネムを党内抗争で引き下ろし、エドゥアルド・ドゥアルデを党の大統領候補に指名させることに成功した。

1999年に州知事に三選されたが、大統領選ではドゥアルデが急進党のデ・ラ・ルアに大敗した。2001年11月、アルゼンチン経済は破綻し、デフォルトに追い込まれた。暴動と略奪、ゼネラル・ストライキの中でデ・ラ・ルアは退陣し、暫定大統領が1週間で辞任して、ドゥアルデが暫定大統領となった。2003年の大統領選挙では、ペロン党から3人の候補者が立つ事態となり、1回目の投票で1位になったのは約24%を得たメネムで、2位がキルチネルだった。メネムは経済混乱の元凶として国民の反感を買っており、決選投票への出馬を辞退したため、キルチネルの当選が決まった。同年5月25日に就任した。

当選後の政策は左派色が強く、メネム以降の新自由主義的な経済政策を転換した。対外債務の返済より国内の経済回復を優先し、2002年にマイナス10.9%だった経済成長率を、2003年に8.7%、2004年に9.0%へと急回復させた。軍政時代の人権侵害について断固たる態度を見せ、関与した軍人の訴追を進めた。ブラジルのルーラ政権、ベネズエラのチャベス政権などとの連携も深めた。2007年の大統領選挙には出馬せず、妻のクリスティーナが出馬して当選した。2010年には南米諸国連合の初代事務局長となった。2010年2月に頸動脈の手術を受け、9月には血管形成術を受けていた。10月27日、サンタクルス州エル・カラファテで、心臓発作のため60歳で死去した。遺体は大統領府に安置され、何万人もの市民が別れを告げ、故郷のリオ・ガジェゴスに埋葬された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。