伝記
サー・ロバート・ウィリアム・ロブソン、通称ボビー・ロブソンは、1933年2月18日にイングランド北東部ダラムのサクリストンで、フィリップとリリアン夫妻の5人兄弟の4番目の子として生まれたサッカー選手、指導者である。生まれて数か月で一家は近くのラングレー・パークの村に引っ越し、父は炭鉱夫として家族を支えた。土曜の午後には、往復34マイルの道のりを、父に連れられてニューカッスル・ユナイテッドの試合を観に行った。少年のころの憧れは、ニューカッスルのインサイドフォワードだったジャッキー・ミルバーンとレイ・シャクルトンで、これは彼がのちに務めるポジションでもあった。
中等教育の学校は校長がサッカーチームのリーグ加盟を許さなかったため、11歳のときから、地元の少年クラブで土曜の朝に試合をした。15歳で学校を出ると村の炭鉱で電気技師の見習いとなったが、空き時間にはサッカーをし、1950年5月にフラムの監督ビル・ドッドジンが家を訪れ、プロ契約を提示した。近くのミドルズブラからも誘いがあったが、断るには惜しい内容だとして、フラムと契約し、ロンドンへ移った。ニューカッスルも関心を示していたが、ロブソンは「自分と契約するために何の努力もしなかった」と考えていた。1950年にトップチームでデビューした。
フラムが降格したのち、1956年3月に当時のクラブ記録の移籍金25,000ポンドでウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンに加わった。1957-58シーズンには、バーンリー戦の4ゴールを含め、クラブのトップリーグ記録となる24ゴールを挙げ、同クラブで257試合に出て61ゴールを記録し、1960年代初めにはキャプテンも務めた。1962年の夏に金銭面で副会長と折り合わず、20,000ポンドの移籍金でフラムへ戻った。のちにバンクーバー・ロイヤルズと契約したが、現地の事情から不満を募らせ、1968年1月にフラムからの監督就任の誘いを受けた。イングランド代表には1956年に初招集され、1957年11月のフランス戦でデビュー戦に2ゴールを挙げた。1958年のワールドカップのメンバーにも入った。代表では20試合に出場して4ゴールを挙げた。
監督としてのデビューは、フラムで1968年1月に行われたFAカップの試合だった。降格を防げなかった同年11月に、駅で夕刊紙の「ロブソン、クビ」の見出しを見て、自分の解任を知ったという。1969年にイプスウィッチ・タウンの監督となり、4シーズンの低迷ののち、1972-73シーズンにリーグ4位へ引き上げた。1977-78シーズンにはFAカップで優勝し、1980-81シーズンには欧州の大会でも優勝した。13年間の在任中、他クラブから獲った選手は14人だけで、多くの選手を下部組織から育て、いずれも代表に選ばれた。戦術の才能と人間性に優れていたと評された。
1982年7月7日、イングランド代表監督に就任し、アシスタントコーチにはウェスト・ブロムウィッチ時代のチームメイトのドン・ハウを任命した。1986年のワールドカップまでチームを率い、1990年の大会ではイングランドを1966年以降で最高のベスト4へ導いた。のちにオランダとポルトガルでリーグ優勝を果たし、イングランドとスペインでもカップ戦を制した。2002年にナイトに叙され、2003年にはイングランドサッカーの殿堂入りを果たした。1991年からがんに冒され、2008年にがん研究のための基金を設立して、700万ポンド以上を集めた。2009年7月31日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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