伝記
ロバート・ストレンジ・マクナマラは、1916年6月9日にカリフォルニア州サンフランシスコで生まれたアメリカの政治家であり、実業家である。父は靴の卸会社の販売マネージャーで、家系はアイルランド人であり、1850年代にジャガイモ飢饉を逃れて渡米し、マサチューセッツを経てカリフォルニアに移った。カリフォルニア大学バークレー校で経済学を専攻し、数学と哲学も学んで、1937年に卒業した。1939年にハーバード大学のビジネススクールで経営学修士を取得し、サンフランシスコの会計事務所で会計士として働いたあと、1940年8月に母校へ戻って教壇に立った。そこでは、企業経営に用いる分析の手法を陸軍航空隊の将校に教えた。
第二次世界大戦が始まると、1943年に陸軍航空軍に入り、統計管理局で戦略爆撃の解析と立案に従事した。1945年にヨーロッパでドイツの敗北が決定的になると、陸軍航空軍は余っていた爆撃機B-17を極東へ転用して日本への爆撃に使おうとした。チャールズ・ソーントンを指揮官とするマクナマラら統計管理局の若手将校たちは、統計学を用いて分析し、B-17を廃棄して新型のB-29を大量生産し、投入するほうが効率的だと主張した。意見は採用され、B-29は1944年末から始まった対日戦略爆撃に大量に投入されて、大きな戦果を上げた。ただ、東京大空襲をはじめとする日本の諸都市への無差別爆撃の倫理性については、上官のカーチス・ルメイに抗議しており、のちの映画などのインタビューでも後悔の念を語っている。3年間の軍役を終えて、中佐として1946年に除隊した。
戦後、ソーントンは優秀な若手将校たちをまとめて経営者に売り込もうと考え、フォード・モーターが採用した。「ウィズ・キッズ」、すなわち神童と呼ばれた彼らは、大学卒の幹部がわずか1割で非効率がまかり通っていた会社を、大胆なリストラと不採算工場の閉鎖で立て直した。失敗作エドセルにも関わったが、小型車ファルコンを成功に導いた。1960年11月9日、フォード一族以外で初めて同社の社長に就任した。
1960年の大統領選挙に勝ったジョン・F・ケネディは、ロバート・ロベットに要請したが断られ、その推薦で、社長就任から5週間のマクナマラに国防長官を打診した。マクナマラは軍事に詳しくないとして断ったが、ケネディは「大統領になるための学校だってない」と答えた。ワシントンの社交界に出入りしなくてよいこと、部下は自分で選ぶことを条件に受諾した。1962年10月のキューバ危機では、先制攻撃を唱える強硬派とともにあった一方、キューバ周辺の海上封鎖と、ソ連船の海上での臨検を提案し、ケネディの承認を受けた。10月24日に実行され、戦闘状態を起こすことなく成功した。彼以上の強硬論を唱えたルメイらを抑えることにも努めた。
統計と費用対効果にもとづく管理手法を国防省に広く導入し、核使用の権限を大統領に集中させ、軍部が独走しない仕組みを作った。費用の面から爆撃機XB-70の開発を中止し、空軍と海軍の戦闘機計画を強引に統合してF-111が生まれたが、艦上では使えない大型機になり、失敗とされる。F-4を空軍にも採用させ、立て直した。最初の5年で140億ドルの削減を報告したが、ベトナム戦争のため国防費は増えた。1961年に280万8000人だった兵力は、辞任時の1968年に355万人に増えており、戦争の拡大に一役を買った。のちに第5代世界銀行総裁も務め、2009年7月6日に死去した。
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