HISTORICAL PERSON · 2009年没

ノーマン・ボーローグ

アメリカの農業学者。小麦の高収量品種などを開発して緑の革命を指導し、世界の食糧不足の改善に尽くして1970年にノーベル平和賞を受けた。

生涯
2009年没
死亡地
アメリカ合衆国(テキサス州 / ダラス)
出生地
アメリカ合衆国(クレスコ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(テキサス州)

伝記

ノーマン・アーネスト・ボーローグは、1914年3月25日、アイオワ州クレスコ近郊のソーデ村にある祖父母の農場で生まれたアメリカの農学者である。ノルウェーからの移民の曾孫で、曾祖父母は1854年にウィスコンシン州に移住した。のちに一家は、クレスコに近いノルウェー系移民の小さな共同体、ソーデに移った。ヘンリー・オリヴァーとクララ・ボーローグの4人の子の長子で、3人の妹がいる。7歳から19歳まで、家族の農場で魚釣りや狩りをし、トウモロコシ、オーツ、牧草、牛、豚、鶏を育てた。ハワード郡の1教室だけの農村学校に8年生まで通い、クレスコ高校ではフットボール、野球、レスリングの選手として活躍した。レスリングの監督は、いつも「105%の力を出せ」と励ました。

農場を離れて学問を志したのは、祖父ネルスの強い勧めによる。祖父は、いずれ腹を満たしたければ今のうちに頭を満たしておくほうが賢い、と語ったという。1933年にミネソタ大学に出願したが入学試験に落ち、新設の2年制の一般課程に入った。2学期後に農学部の林学課程に移り、大学のレスリング部で、大会の準決勝まで進んだ。学費を稼ぐため学業を中断して働き、1935年には民間資源保全部隊の班長として、失業者と国の事業に従事した。部下には飢えている人が多く、食べ物が人を変えるさまを見たことが、傷として心に残ったと後に語った。1937年に林学の学位を取得し、1935年から1938年まで合衆国森林局のマサチューセッツ州やアイダホ州の事業所で働いた。1942年にミネソタ大学で植物病理学と遺伝学の博士号を得た。

その後、メキシコで農業研究に携わり、背が低く、多収で、病気に強い小麦の品種を開発した。コムギや多くの穀物は、多収になると穂の重さで倒れやすくなる。そこで、小麦農林10号を親に使って、背の低い丈夫な麦を作った。これは「奇跡の麦」と呼ばれる。20世紀半ばに、この高収量品種と近代的な農業の技術を、メキシコ、パキスタン、インドへ広める指導をした。メキシコは1963年までに小麦の純輸出国となり、パキスタンとインドでは、1965年から1970年の間に小麦の収量がほぼ倍増して、食糧の安全が大きく高まった。メキシコでは生産量が3倍に達したとされる。これらは「緑の革命」と呼ばれる。世界の食糧不足の改善に尽くしたとして、1970年にノーベル平和賞が与えられた。イギリスの経済学者マルサスが1798年の『人口論』で警告した、人口の増加に食糧の生産が追いつかない問題に、農業技術で立ち向かった人物としても語られる。

1986年には笹川アフリカ協会の会長に就任し、サハラ以南のアフリカ諸国で、緑の革命の実現を目指して働いた。1977年に大統領自由勲章、2000年にヴァネヴァー・ブッシュ賞、2002年に公共福祉メダル、2004年にアメリカ国家科学賞、2006年に議会名誉黄金勲章を受けた。ノーベル平和賞、大統領自由勲章、議会名誉黄金勲章の三つをすべて受けた人は、世界で7人しかいない。大学時代のレスリングの功績で、全米レスリング殿堂にも入った。10億人ともいわれる人命を飢えから救ったとされ、「緑の革命の父」と呼ばれる。2009年9月12日に死去した。

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