HISTORICAL PERSON · 2009年没

平木隆三

日本の元サッカー選手(DF)。約10年間日本代表で活躍し、Jリーグ開幕当時の名古屋グランパスエイトの監督を務めた。

生涯
2009年没
死亡地
日本(愛知県 / 豊田市)
出生地
日本(大阪市)
出典
世界地図
日本(愛知県)

伝記

平木隆三は1931年10月7日、大阪府堺市の浜寺に生まれたサッカー選手、指導者である。実家は鉄工所を営み、五人兄弟の三男だった。岸和田高校に入学した1948年から本格的にサッカーを始め、1950年には全国高等学校サッカー選手権大会に大阪府代表として出場し、インサイドフォワードとしてベスト4進出に貢献した。1951年に関西学院大学へ進むと、9月の早稲田大学との定期戦でディフェンダーのレギュラーとなり、秋の関西学生リーグと12月の東西学生王座決定戦で優勝した。このときのフォワードには長沼健がいた。

3年次の1953年には西ドイツのドルトムントで開かれたユニバーシアードに出場し、4年次の1954年に日本代表としてデビューした。3月のワールドカップスイス大会予選の韓国戦に出場し、5月の第2回アジア大会の代表になって以来、10年間にわたって代表選手を務めた。1956年のメルボルン五輪アジア予選では韓国と2試合を戦った後、抽選で代表となったが、本大会は1回戦でオーストラリアに0対2で敗れた。大学卒業後の1957年に湯浅電池へ入社し、翌1958年に古河電気工業へ移った。1960年には天皇杯で企業チーム初の優勝を果たし、同年夏の欧州遠征で初めてデットマール・クラマーの指導を受けた。1961年には企業チーム初の天皇杯連覇を達成している。

1963年からは監督を兼任し、1964年の東京五輪では二度目の五輪代表に選ばれた。怪我のため試合には出られなかったが、主将としてベスト8進出に貢献した。1965年に日本サッカーリーグが始まると古河は3位となり、平木は1966年を含めて計6試合に出場し、同年限りで現役を退いた。国際Aマッチでは27試合に出場して1得点を挙げている。選手兼任だった1965年には日本ユース代表監督も務め、自国開催のアジアユース選手権を指揮した。選考合宿から強化合宿まで続くハードな日程で臨み、初戦のフィリピン戦は5対0で勝ったものの、香港戦では布陣の変更が効を奏さず無得点に終わるなど、グループ3位で大会を終えた。

引退後は日本ユース代表監督(1967年から1969年)を務め、メキシコ、ミュンヘン、モントリオールの各五輪で日本代表コーチを歴任した。メキシコ五輪では対戦相手の偵察や戦力分析で手腕を発揮し、銅メダル獲得に貢献したとされる。1969年には千葉の検見川で開かれた第1回コーチングスクールで、クラマーの下でコーチを務めた。ユース監督としては1967年から3年連続でアジアユースを指揮したが、1967年と1968年は3戦を終えてグループ最下位に沈んだ。帰国後は日本サッカー協会への報告書で、個人技のまずさや連係プレーの欠如などを日本の課題に挙げた。1969年には八重樫茂生がコーチに加わり、日本は第2回大会以来のグループ突破を果たして、後に日本代表となる選手を7人輩出した。

1974年には日本B代表監督としてマラハリムカップで優勝に導いた。その後、日本サッカー協会の理事(1976年から1988年4月)、専務理事(1988年5月から1991年)を務め、1992年から1993年にはJリーグ開幕当時の名古屋グランパスエイトで監督を務めた。2009年1月2日に世を去った。

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