伝記
リチャード・ライトは、愛称を「リック」といい、ロックバンド、ピンク・フロイドの元キーボード奏者として知られるイギリスのミュージシャンである。1943年7月28日に、ミドルセックス州のハッチエンドで、生化学者の父のもとに生まれた。12歳のころにギターとトランペット、ピアノを覚えたという。のちにリージェント・スクール・オブ・ポリテクニックに入学し、そこで後にバンド仲間となるロジャー・ウォーターズとニック・メイスンに出会った。三人は大学の同級生で、ともに建築学を学んでいたが、メイスンによると、ライトは建築には向いていない落ちこぼれだったという。結局一年で大学を退学し、ロンドン・カレッジ・オブ・ミュージックに編入したとされる。
1965年に、彼らが結成したピンク・フロイド・サウンドやシグマ6といったバンドに加わった。ロンドンのアンダーグラウンドの舞台で名を広め、1967年にウォーターズ、メイスン、シド・バレットとともにピンク・フロイドとしてメジャー・デビューした。初期にはバレットとともに音楽面で主導的な立場にあり、キーボードやメロトロン、シンセサイザーの演奏は音世界の形成に大きな役割を果たした。超絶的な速弾きを披露するタイプではなく、全体を包み込むような幻想的な音を奏でたと評される。ボーカリストとしても、デビュー・アルバムの冒頭曲『アストロノミー・ドミネ』でリード・ボーカルをとり、『エコーズ』の主旋律や、『狂気』に収められた『タイム』『アス・アンド・ゼム』のサビも歌っている。バレットの脱退直後の作品群では、ウォーターズとともに曲作りの中心を担った。
ピンク・フロイドに在籍中の1978年に初のソロ・アルバム『ウェット・ドリーム』を発表したが、これはバレットを除けばメンバーのなかで最初のソロ作品であった。しかし1970年代半ば以降はバンド内で存在感が薄くなっていく。リーダーシップをとるウォーターズとの対立は大きく、ウォーターズが歌詞の重要性を説いたのに対して、ライトはより音楽面にこだわったとされる。1979年のアルバム『ザ・ウォール』の制作時には解雇される事態にまで発展した。その後の『ザ・ウォール』のツアーにはサポート・メンバーとして加わったため、ツアーで出た莫大な赤字の支払いは負わずにすんだ。脱退後はデイヴ・ハリスとZEEを結成したが上手くいかず、薬物に溺れていったという。
1987年にデヴィッド・ギルモアとメイスンがピンク・フロイドを再始動させると、アルバム『鬱』の制作後半にサポート・メンバーとして復帰し、同年のワールド・ツアーから正式メンバーに戻った。復帰の裏には、ライトの妻によるバンドへの働きかけがあったと言われる。1994年のアルバム『対』にも正式メンバーとして参加し、曲も作っている。1996年には18年ぶりの2作目のソロ『ブロークン・チャイナ』を出した。2006年のギルモアのソロ・アルバム『オン・アン・アイランド』にゲスト参加し、ツアーにも出演した。2007年9月7日にロンドンで行われたギルモアのDVDのプレミアでの演奏が、公の場での最後の演奏となった。
2007年12月に癌と診断されており、2008年9月15日、癌のためイギリスの自宅で死去した。65歳であった。ギルモアは公式サイトで追悼の声明を発表した。没後の2014年11月には、ギルモアとメイスンがライトへの追悼として制作し、最後のアルバムになると述べたスタジオ・アルバム『永遠』が発売された。約20年前の『対』のために録られた20時間分のセッション素材をもとにした作品である。
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