伝記
レヴィー・パトリック・ムワナワサは、1948年9月3日にザンビア北部のムフリラで、十人きょうだいの二番目の子として生まれた政治家である。ザンビア大学で法学の学位を取り、1974年から個人の法律事務所で働いて、1978年に自分の事務所を設けた。1985年にはザンビア政府の訟務長官を務めたが、翌1986年には民間の弁護士業に戻っている。1989年には、ケネス・カウンダ政権から国家転覆の陰謀で訴えられたクリストン・テンボ中将の弁護団を率い、テンボが国を相手に勝訴したことで、反カウンダ派の間で名が知られるようになったという。
1991年にフレデリック・チルバが大統領に選ばれると、副大統領に任命され、1992年3月に法律事務所を離れた。ところが1991年12月8日に大きな交通事故に遭い、補佐官がその場で亡くなった。本人も全身に傷を負ってヨハネスブルグへ運ばれ、三か月入院した。この事故の後遺症で発音がはっきりしなくなったとされる。のちに、暗殺未遂の疑いがあるとして、責任の所在を調べる調査委員会が設けられた。副大統領としては、職場にはびこる悪習や指導者の退廃、同僚の抵抗に向き合ったが、1994年7月に辞任した。1996年に複数政党制民主主義運動(MMD)の大統領候補を決める選挙で現職のチルバに挑んで敗れ、2001年の選挙まで政治から退いた。
2001年8月にMMDの国家執行委員会が大統領候補に選び、12月27日の選挙に臨んだ。候補者は11人で、ゴドフリー・ミヤンダ、テンボという二人の元副大統領も含まれていたが、得票率わずか29%で最多得票を得て当選した。次点のアンダーソン・マゾカは27%で、接戦であった。2002年1月2日に就任したものの、マゾカの国家開発統一党をはじめとする野党は結果に異議を唱え、国内外の選挙監視団も、運動と投票に重大な不正があったと指摘した。三人の対立候補は最高裁判所に勝利の取り消しを求めたが、裁判所は選挙に欠陥があったことは認めつつ、結果に影響するものではないと判断して訴えを退けた。政権は汚職を一掃する運動を進めたことで評価され、外国の投資家にも好まれ、鉱物を中心に経済が成長した。2005年1月には、政府が貧困に取り組んでこなかったことを国民に謝罪した。国連によると、当時の国民の75%が一日一ドル未満で暮らしていた。
2006年9月28日の選挙には再選を目指して立候補した。主な対立候補は愛国戦線のマイケル・サタとみなされていたが、公式結果で得票率43%を得て、10月2日に再選が確定した。数日後に新内閣を指名し、副大統領には統一民族独立党のルピヤ・バンダを任命した。2008年5月には、アフリカ開発会議のために日本を訪れ、福田康夫首相と会談している。
2008年6月29日、アフリカ連合の首脳会議に出席するために滞在していたエジプトのシャルムエルシェイクで倒れ、緊急入院した。翌7月1日にフランスへ搬送され、原因は高血圧性の脳内出血とされた。職務の遂行が不可能となったため、副大統領のバンダが大統領の職務を代行した。パリの病院で治療を受けたが、8月19日に亡くなり、バンダが大統領に昇格した。
同じ年に亡くなった人物
- フォレスト・J・アッカーマン (2008年没)
- ミリアム・マケバ (2008年没)
- マルコム・マッケナ (2008年没)
- マリリン・ファーガソン (2008年没)
- レナート・ベルゲリン (2008年没)
同じ地域に関係する人物
- ロベール・ブラジヤック (1945年没)
- ポール・ヴィヤラール (1996年没)
- テオフィル=ジュール・ペルーズ (1867年没)
- エミール・ボドー (1903年没)
- ジョルジュ・ポリツェル (1942年没)