伝記
ハロルド・ピンターは、1930年10月10日にロンドン東部のハックニーで生まれた劇作家・詩人である。父は仕立て職人で、ユダヤ系の労働者階級の家庭に生まれた一人っ子だった。1940年から翌年にかけては、空襲を避けてコーンウォールやレディングへ疎開している。のちに公式の伝記を著したマイケル・ビリントンは、この時期の日常に満ちていた生と死の切迫が、孤独、当惑、別離、喪失といった後の作品に通じる主題の記憶をピンターに残したと述べている。
1944年から1948年までハックニー・ダウンズ校に学び、英語教師ジョーゼフ・ブリアリーの指導で学校演劇に出て、ロミオやマクベスを演じた。走ることを好んで校内の短距離走の記録を破り、クリケットにも熱中する少年でもあった。12歳のころから詩を書き、1950年には学校外の雑誌『ポエトリー・ロンドン』にも詩が載った。映画好きの少年でもあり、ルイス・ブニュエルらのシュルレアリスム映画に強い衝撃を受けたという。1948年には良心的な理由から徴兵を拒み、罰金刑を科された。演劇学校に進み、1951年にはプロの舞台俳優になったが、無名のままくすぶる日々が続き、その間も詩や自伝的な小説を黙々と書いていた。
1956年に女優ヴィヴィアン・マーチャントと結婚し、1958年に息子ダニエルが生まれた。1957年、ブリストル大学の演劇科に通う幼なじみに頼まれて処女戯曲『部屋』を書くと、大学での上演が好評を得て、ピンターは劇作家として生きる決意を固めた。同年の『バースデイ・パーティ』は興行不振でわずか6日で打ち切られたものの、サンデー・タイムズ紙には好意的な批評が出た。斬新な手法は当初評論家に受け入れられず批判されたが、1960年に上演された『管理人』でようやく評価され、地位を確立した。以後は演劇のほかテレビ、ラジオ、映画、エッセイへと活動を広げ、俳優や演出家としても舞台や画面に立った。映画脚本では、赤狩りを逃れて英国に渡った監督ジョゼフ・ロージーとの仕事が名高く、『召使』(1963年)などを手がけた。
作風は、説明的な台詞や行動の動機、明快で写実的な舞台設定を嫌うもので、状況が明示されないまま物語が進み、現実と非現実、過去と現在が交錯する。初期の作品は「威嚇の喜劇」、『誰もいない国』(1975年)や『背信』(1978年)は「記憶の演劇」と呼ばれた。登場人物の経歴をあらかじめ細かく決めることはせず、何者かわからない人物を書きながら「発見」していくのだと語っている。後期には全体主義批判を中心とする政治的な作品も増えた。私生活では1980年に作家アントニア・フレーザーと再婚している。反戦の立場を貫き、北大西洋条約機構(ナトー)軍のユーゴスラビア空爆やアメリカのアフガニスタン空爆に抗議し、イラク侵攻をヒトラーになぞらえたこともあった。
2002年に食道癌であることを公表して闘病を続け、2005年2月に劇作家からの引退と政治活動への専念を表明した。同年ノーベル文学賞を受けたが、重い皮膚疾患のため授賞式には出られず、自宅で収録した記念講演の録画がストックホルムで上映された。2007年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章を贈られている。2008年12月24日、78歳で世を去った。
同じ年に亡くなった人物
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