伝記
サー・エドモンド・パーシヴァル・ヒラリーは、1919年7月20日にニュージーランドのオークランドで生まれた登山家であり、探検家である。父パーシバルはガリポリの戦いに従軍した元兵士で、養蜂業を営むことになり、翌1920年に一家はオークランドの南にあるツアカウへ移り住んだ。幼いころのヒラリーは虚弱で内向的だったが、蜂の巣箱を運ぶ作業で足腰が鍛えられ、高校生のころには身長が195センチに達したという。ツアカウ小学校からオークランド・グラマー・スクールへ進んだものの、遠い通学に時間を取られて学校生活を楽しめなかったとされる。16歳のとき、高校の旅行で訪れたルアペフ山に魅せられて登山を始め、20歳でオリヴィア山の登頂に成功した。エンジニアを志してオークランド大学で数学と理学を学んだが、2年ほどで中退し、弟のレックスとともに養蜂業に就いた。
第二次世界大戦中はニュージーランド空軍に所属し、航空士として従軍した。1945年にはフィジーとソロモン諸島での任務中にボートの事故で負傷し、帰国している。戦後は登山に打ち込み、1948年1月30日にクック山に登頂した。1951年にはニュージーランドのガルワール・ヒマラヤ探検隊に加わり、同じ年にエリック・シプトン率いるイギリスのエベレスト偵察隊に選ばれた。1952年のチョ・オユー遠征には参加したが、登頂はできなかった。
1953年、中国によるチベット支配の影響でエベレストのチベット側ルートが使えない中、ネパール政府は入山許可を年に1組に限っていた。前年にはスイス隊が山頂まであと240メートルの地点に達しており、英国山岳会と王立地理学会が組織するヒマラヤ協議会は、この年の遠征を最後の挑戦と考えた。こうして総勢400名ほどの大登山隊が結成され、隊長にはイギリス陸軍大佐のジョン・ハントが任命された。ニュージーランドからは、ヒラリーと長年の登山パートナーであるジョージ・ロウが選ばれ、ネパールからはテンジンらが加わった。5月26日にはエヴァンズとボーディロンの組が頂上まで91メートルに迫りながら、酸素ボンベの不調で引き返した。ハントはヒラリーとテンジンの組に出動を命じ、28日に最終キャンプを設営して、翌29日の早朝にアタックを開始、午前11時30分に二人は人類初となるエベレスト山頂に立った。6月6日には、エリザベス2世からナイトの勲位を授けられてサーの称号を得ている。
その後もヒラリーは、イギリスの南極横断遠征に加わって1958年にトラクターで南極点に達し、1985年にはニール・アームストロングとともに雪上飛行機で北極点に降り立って、北極点・南極点・エベレスト山頂の三極に到達した最初の人となった。1985年から1980年代末まで駐インド高等弁務官も務めている。一方、慈善団体ヒマラヤ基金を創設して、ナムチェバザール地区の開発に力を注ぎ、1960年にはクムジュン小学校を建てた。1975年には、ネパールにいるヒラリーのもとへ向かっていた妻と次女が飛行機事故で亡くなった。1989年にジェーン・マルグリューと再婚し、2008年1月11日に心臓発作で88歳の生涯を閉じた。1月22日にオークランドで国葬が営まれ、遺灰は遺言によりオークランドの海にまかれた。生前から、ニュージーランドの5ドル紙幣にはその肖像が使われていた。
同じ年に亡くなった人物
- トム・ラントス (2008年没)
- マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー (2008年没)
- 飯島愛 (2008年没)
- ジェラルド・ダミアーノ (2008年没)
- ヤン・マチュルスキ (2008年没)
同じ地域に関係する人物
- デビッド・ロンギ (2005年没)
- ウィリアム・フォックス (1893年没)
- キース・パーク (1975年没)
- ジーン・スチュワート (2020年没)
- ポール・リーブス (2011年没)