HISTORICAL PERSON · 353年没

マグネンティウス

ローマ帝国の帝位簒奪者。反乱軍に擁立されて皇帝コンスタンス1世を殺害したが、コンスタンティウス2世との戦いに敗れ、リヨンで自殺した。

生涯
353年没
死亡地
フランス共和国(ローヌ県 / リヨン)
出生地
フランス共和国(アミアン)
出典
世界地図
フランス共和国(ローヌ県)

伝記

マグネンティウス(フラウィウス・マグヌス・マグネンティウス)は、303年ごろに生まれ353年に没した、ローマ帝国の帝位簒奪者である。350年から353年にかけてコンスタンス1世に対して立ち、コンスタンティウス2世と戦った。ガリアのサマロブリウァ(アミアン)の出身で、ブルトン人の父とフランク人の母の間に生まれたゲルマン人とされるが、この出自はコンスタンティヌス朝側の宣伝によって誇張または創作されたものではないかと疑う学者もいる。幼少時にローマ軍の捕虜となったともいわれ、のちに軍人として身を起こした。皇帝の側近に付く名誉ある護衛部隊プロテクトルに属し、さらに近衛部隊であるヘルクレス軍団とヨウィウス軍団の指揮官にまで昇進した。職務に有能で、宮廷の重要な官僚たちにも好かれていたらしく、とりわけ皇帝財産管理の長官マルケリヌスが彼の帝位簒奪を支持した。

当時、コンスタンスは深い不人気を抱えていたとみられ、宮廷の官僚たちはこれを倒してマグネンティウスを擁立する陰謀を企てた。350年1月18日、アウグストドゥヌム(オータン)で、マグネンティウスは宴席に出ていったん退席し、紫の衣をまとって戻った。出席者は皇帝として歓呼して迎えたという。細部には不明な点が多い。彼は市の守備兵に金を与えて忠誠を確保し、住民が市外に出ることを禁じて知らせの広まりを防いだ。ピレネー山脈の近くで狩りをしていたコンスタンスには追っ手が送られ、ヘレナ(ペルピニャン付近)で殺された。ゾシモスは、追っ手の指揮官はガイソで、351年に執政官となったのはその褒美だったと伝える。

マグネンティウスはブリタンニア、ガリア、ヒスパニアの諸属州の忠誠を得て、ただちにイタリアの掌握に動き、1か月たらずでファビウス・ティティアヌスをローマ市長官に任じて統治させた。アフリカも早く押さえたらしく、のちにウェトラニオが支配下に置くイリュリクムを除き、コンスタンスの旧領のすべてを受け継いだ。コンスタンティヌス家と縁のない彼には王朝的な正統性がなかったため、コンスタンティヌス大帝の曾孫かもしれないユスティナと結婚した。二人に子はなく、ユスティナは彼の死後、ウァレンティニアヌス1世と再婚した。また「ローマ世界の解放者」と刻んだ貨幣を鋳造して解放者としての像を打ち出し、最初の半年間はコンスタンティウスを年長者として語り、その肖像を刻んだ貨幣も造らせた。論争の的だった司教アタナシオスにも働きかけ、イタリアでの異教の供犠に対するコンスタンスの制限の一部を撤回したが、これは異教徒の支持を得ようとする稚拙な策とされ、彼自身が異教徒だという評判を招いた。

しかしコンスタンティウスは、弟を殺した者を認めれば悪い前例になると考え、西へ進軍の準備を進めた。ローマではコンスタンティヌスの甥ユリウス・ネポティアヌスが市を奪って27日間保ったため、マグネンティウスは官房長官に昇進したマルケリヌスを送って取り戻させた。351年、ムルサの戦いでコンスタンティウス軍に敗れてイタリアへ逃れ、353年8月11日(10日とも)にリヨンで自殺した。報せを受けた弟デケンティウスも翌日、首を吊った姿で見つかった。ムルサの戦いではローマ兵が大量に失われ、ゾシモスによれば、コンスタンティウスは帝国が蛮族の侵入を防げなくなることを恐れたという。マグネンティウスの死後、コンスタンティウス2世がローマ帝国の単独皇帝となった。

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