伝記
レオニード・ハーヴィッツは、1917年8月21日に生まれ、2008年6月24日にミネアポリスで没したポーランド系アメリカ人の経済学者であり、数学者である。ゲーム理論とメカニズムデザインの研究で知られ、インセンティブ整合性の概念を最初に唱えた。この概念に基づいて、望ましい結果を実現する仕組みを設計できることを示し、メカニズムデザインの理論の基礎を築いた業績により、2007年にロジャー・マイヤーソン、エリック・マスキンとともにノーベル経済学賞を受賞した。受賞時は90歳で、受賞者としては最高齢の1人だった。弟子には、青木昌彦、西條辰義、2000年にノーベル経済学賞を受けたダニエル・マクファデンらがいる。
十月革命の数か月前、ポーランド系ユダヤ人の家庭に、モスクワで生まれた。生まれてまもなく、家族とともにワルシャワに戻った。父はパリのソルボンヌ大学の学位を持つ弁護士で、法律を学ぶよう勧めたため、ワルシャワ大学で法学を学んだが、経済学の講義に出るうちに、将来の天職を見いだした。1938年にワルシャワ大学で法学の学位を得て、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学し、ニコラス・カルドアやフリードリヒ・ハイエクに学んだ。ただし、経済学の学位は持たず、後年「経済学は、聞いて学んだ」と述べている。1939年にドイツがポーランドに侵攻すると、再び難民となった。ビザの延長が拒否され、フランスやスイスを経て、ジュネーブの高等国際問題研究所で学んだ。両親と兄弟はワルシャワを逃れたものの、逮捕されてソ連の収容所に送られたという。ハーヴィッツ自身は、スペインやポルトガルを経て、1940年にアメリカ合衆国に渡った。
1941年にマサチューセッツ工科大学でポール・サミュエルソンの、シカゴ大学でオスカー・ランゲの研究助手を務めた。戦時中は、陸軍通信隊に電子工学を教え、1942年から1944年はシカゴ大学の気象学研究所の所員で、経済学部で統計学を教えた。1942年から1946年はコウルズ委員会の研究員で、ヤコブ・マルシャックやティャリング・クープマンスの助言を受けた。1944年にエヴリン・イェンセンと結婚して、4人の子をもうけた。1946年にアイオワ州立大学の准教授となり、のちにイリノイ大学の教授も務めた。1951年にウォルター・ヘラーに誘われてミネソタ大学に移り、1969年には特別教授となり、1989年にはカールソン経済学教授になった。ミネソタ大学には、亡くなる時まで名誉教授として籍を置いた。1980年代には、東京大学の客員教授も務めた。
1950年代にはケネス・アローや宇沢弘文らと非線形計画法の研究を行い、1970年代には、社会主義と資本主義の対立を背景に、情報の伝達やメカニズムの研究を世界に先駆けて進めた。1950年代に提案した意思決定の基準は、悲観論者と楽観論者の境目を示すもので、「ハーヴィッツの基準」と呼ばれる。言語学や考古学、音楽にも関心があり、気象学の研究も行った。1968年にはユージン・マッカーシー候補を支持する代議員として民主党大会に出席した。2008年6月半ばに腎不全で入院し、約1週間後に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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