伝記
ポール・レナード・ニューマンは、1925年1月26日に生まれ、2008年9月26日に没したアメリカ合衆国オハイオ州出身の俳優である。3度のアカデミー賞をはじめ多くの賞を受け、食品会社「ニューマンズ・オウン」の設立者でもあり、1950年代から半世紀以上にわたり第一線で活躍した。リベラル派で、支持政党は民主党だった。
クリーブランドハイツで、スポーツ用品店を営むハンガリー系ユダヤ人の父アーサーと、スロバキア系でカトリックの母テレサの間に生まれ、シェイカーハイツで育った。幼い頃は虚弱で、学校でいじめを受けた。7歳で、演劇好きの母の勧めで児童演劇団に入ったが、その時は演劇に関心を示さなかった。高校を出ると百科事典の訪問販売などで暮らし、家業を継ぐためにオハイオ大学で経済学を学んだが、第二次世界大戦が始まって海軍に入隊した。航空機の操縦士を志したが色盲のために叶わず、雷撃機の後部銃座の射手を務めた。1945年春に空母バンカーヒルに配属されたが、乗機のパイロットが耳痛を患ったため、沖縄戦には参加しなかった。戦後はケニオン大学でフットボールに打ち込んだが、チーム内の喧嘩で除名され、子どもの頃に学んだ演劇を志した。1949年に結婚し、翌年に父が亡くなると家業を継いだが、演劇講師になる学費のために店を売った。イェール大学大学院での演技がプロデューサーの目に留まってニューヨークに招かれ、1952年にはジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドとアクターズ・スタジオに入った。
ブロードウェイの舞台『ピクニック』の演技が高く評価され、ワーナー・ブラザースと5年間の専属契約を結んだ。1954年の『銀の盃』で映画に初出演したが、作品が失敗作とされて不本意なデビューとなった。ディーンとブランドが世界的なスターになる一方、満足のいく作品に出られず、「第2のマーロン・ブランド」と呼ばれることにも失望して、舞台とテレビドラマへ軸足を移した。そのテレビ作品の演技が称賛され、ディーンの急逝で主演が空いた『傷だらけの栄光』に、ロバート・ワイズ監督の依頼で出演した。実在のボクサーの話し方や癖を模倣する徹底した役作りで注目を浴びた。1958年に女優のジョアン・ウッドワードと再婚し、3人の娘をもうけた。同年の『熱いトタン屋根の猫』で初めてアカデミー主演男優賞の候補となった。1961年の『ハスラー』で英国アカデミー賞の男優賞を受け、妻を主演に起用した初監督作品『レーチェル レーチェル』も高く評価された。1969年にロバート・レッドフォードと共演した『明日に向って撃て!』は生涯最高のヒットを記録し、1973年の『スティング』はアカデミー作品賞を受賞した。1970年代は反戦運動や公民権運動に積極的に参加し、ニクソンの「敵リスト」に氏名が載った。1978年には息子のスコットが酒とドラッグで命を落とし、麻薬撲滅の基金を設立した。
1982年に食品会社ニューマンズ・オウンを設立し、純利益を全額、恵まれない子どもたちに寄付した。1985年にアカデミー名誉賞を受け、翌年は『ハスラー2』で主演男優賞を得た。カーレースにも熱中し、1982年からカール・ハースと共同でレーシングチームを運営した。2007年に俳優の引退を発表した。2008年には末期の肺癌で闘病していると報じられ、9月26日、コネチカット州ウェストポートの自宅で死去した。
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