伝記
ヤネス・ドルノウシェクは、1950年5月17日に生まれ、2008年2月23日に没したスロベニアの自由主義の政治家である。ユーゴスラビア幹部会議長(1989年から1990年)、スロベニアの首相(1992年から2002年、2000年に短い中断あり)を務め、同国の第2代大統領(2002年から2007年)となった。
ツェリェで生まれ、ザゴリェ・オブ・サヴィの小さな町キソヴェツで育った。父ヴィクトル(1925年から2005年)は地元の鉱山の長、母シルヴァ(1921年から1976年)は専業主婦だった。1973年にリュブリャナ大学を経済学専攻で卒業し、その間にフランスのル・アーヴルの銀行で実習生として働いた。1975年に25歳で建設会社の財務責任者となり、2年後にはカイロのユーゴスラビア大使館で、1年間、経済問題の顧問を務めた。1981年に修士論文、1986年にマリボル大学の経済学部で博士論文の審査を受けた。1983年には、故郷の中央サヴァ渓谷地方にあるリュブリャナ銀行の支店長となった。金融財政と国際経済協力の分野の専門家であった。1974年からユーゴスラビア共産主義者同盟の盟員で、1984年にはスロベニア共和国議会の代議員となり、共和国委員会の委員や、労働組合の国際関係委員会の議長も歴任した。
1989年、ユーゴスラビアの集団指導体制の幹部会で、スロベニア代表のスタネ・ドランツが引退した。スロベニア共産主義者同盟は、民主化の動きを意識して、後任を2人の候補から選ぶ選挙を行うことにした。それまで一般にあまり知られていなかったドルノウシェクは、党が推した候補マルコ・ブルツを破った。他の共和国の共産党指導部はこの選び方に同意せず、スロベニア共和国議会が結果を承認する形をとった。1989年から1990年にかけて、集団指導体制の幹部会議長を務め、同時に非同盟運動の議長や、ユーゴスラビア人民軍の司令官でもあった。非同盟運動の議長としては、ベオグラードの第9回首脳会議を、スロベニア語の演説で開いている。スロベニア独立後の十日間戦争では、ブリオニ合意の仲介に力を尽くし、ユーゴスラビア軍の平和的な撤退の交渉にも関わった。
1992年、独立と最初の民主的な政権を担った連立の危機のあと、妥協の候補として首相に選ばれた。経済政策の専門家であったことも評価された。まもなく自由民主党の党首となり、同年の議会選挙で勝利したが、票が分散したため他党との連立で政権を組んだ。1996年にも党は票を伸ばし、最大政党であり続けた。1997年に国民党との連立で3期目に入り、2000年5月に連立相手との対立で退いたが、同年秋の選挙で党が大勝し、首相に返り咲いた。国の政治的、経済的な再建を導き、貿易の向きを旧ユーゴスラビアから西側へと転じ、非効率な共産主義時代の経営の仕組みを市場の仕組みへ置き換えることに成功した。2002年12月1日の大統領選の決選投票で56.8%を得て当選し、12月23日に就任した。2006年に自由民主党を離党した。1999年に癌と診断され、いったんは回復したが、大統領在任中の2003年に再発した。2007年の大統領選には立候補せずに治療に専念し、2008年2月23日、ブルフニカ近郊のザプラナで肺癌のため死去した。
同じ年に亡くなった人物
- トーマス・ハックル・ウェーラー (2008年没)
- フロイド・シモンズ (2008年没)
- イェルク・ハイダー (2008年没)
- ドナルド・E・ウェストレイク (2008年没)
- ジョー・スタッフォード (2008年没)
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