伝記
アレクシイ2世(アレクシー2世)は、1929年2月23日に生まれ、2008年12月5日に没した、第15代のモスクワ及び全ロシアの総主教で、ロシア正教会の首座主教である。俗名はアレクセイ・ミハイロヴィチ・リディゲルといい、民族的にはバルト・ドイツ系だった。ソビエト連邦崩壊後の宗教の再生を見守り、彼が総主教の座にあった18年間に、ロシア正教会は、ソビエト当局から厳しい迫害や統制を受ける存在から、国の政治家に好意的に受け入れられ、積極的に発言する、ロシアの象徴的な存在へと変貌した。
エストニアのタリンに生まれた。父ミハイル・フォン・リディゲル(1902年から1962年)は、サンクトペテルブルク生まれのバルト・ドイツ人貴族の末裔で、祖先に、1695年にスウェーデン王からナイト爵に叙された人物がいる。1917年の革命の後、父は国外に逃れて一家はエストニアに移住し、のちにタリンで、母エレーナ・ピサレヴァ(1902年から1959年)と出会って、1926年に結婚した。父は1940年に神学校を卒業して叙聖され、のちに司祭となり、タリンの生神女誕生教会の教区司祭や、教区会議の議長を務めた。アレクセイは、子どものころから代父の導きのもとで正教会に奉仕しながら、タリンのロシア中等学校に通った。
1947年にレニングラード神学校に入り、1949年に卒業すると、レニングラード神学アカデミーに進み、1953年に卒業した。1950年4月、レニングラードのグレゴリイ府主教により輔祭に叙聖され、同月に司祭となって、タリン主教区のエストニアの町の神現教会の教区司祭に任命された。同月11日には、タリン出身の司祭の娘ヴェーラ・アレクセーエヴァと結婚した。この結婚は、徴兵を避けるため急がれたとする告発もあり、二人は1年後に離婚した。1957年にタリンの生神女就寝大聖堂の教区司祭となり、1958年に長司祭に昇叙され、1961年3月に剃髪して修道士になった。同年8月にタリンおよびエストニアの主教に選ばれ、1964年に大主教、1968年に府主教となり、1986年から総主教に選ばれるまで、ノヴゴロド・レニングラードの府主教を務めた。
1990年に先代のピーメン1世が亡くなると、総主教代行のフィラレートを抑えて、新しい総主教に選ばれた。運営の経験があり、主教グループ間の調停者としての評判もあったためである。ソビエト連邦の歴史上、政府の圧力を受けずに選ばれた最初の総主教だったという。就任すると、公立学校での宗教教育と、信教の自由を法で認めるよう政府に求めた。1991年8月のクーデターでは、ゴルバチョフ大統領の軟禁を非難し、首謀者たちを破門した。暴力と同胞殺しに反対する声明は、拡声器で増幅されて、ロシアの「ホワイト・ハウス」の外で、攻撃30分前の軍隊にも伝えられた。1992年には共産主義時代に弾圧された新致命者らが、2000年にはニコライ2世一家を含む多くの新致命者が列聖された。2007年5月17日には、在外ロシア正教会との最終合意文書が、モスクワで締結された。
一方で、かつてKGBの手先だったと言われ、モスクワ総主教庁はこれを否定し続けた。彼自身は、総主教庁の主教たちがソビエト政府と妥協していたことを認め、これらの妥協について後悔を表明した。1995年に初めてドイツを公式訪問した際には、ソビエト連邦がドイツに押しつけた共産主義の圧政について謝罪した。2008年12月5日、モスクワ郊外ペレデルキノの自宅で亡くなり、心不全によるとロシアの通信社は伝えた。後任にはキリル1世が就いた。
同じ年に亡くなった人物
- Karoly Nemeth (2008年没)
- ババ・アムテ (2008年没)
- アルフレート・プファフ (2008年没)
- マリー・スミス・ジョーンズ (2008年没)
- イヴ・サン=ローラン (2008年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴャチェスラフ・チーホノフ (2009年没)
- ニコライ・ガブリロヴィッチ・ラティシェフ (1999年没)
- マリヤ・アンドレーエヴァ (1953年没)
- レフ・ヴィゴツキー (1934年没)
- ミハイル・ネステロフ (1942年没)