伝記
ユリウス1世は、ローマ司教、すなわちローマ教皇である。280年頃にローマで生まれ、同じローマで没した。没年は352年とされる。その在位は、アリウス派をめぐる教会の危機と、343年のサルディカ公会議で特徴づけられる。
ローマの生まれで、ルスティクスという人物の子である。前任のマルクスの在位は短く、その後、司教座は理由がわからないまま4か月間空いていた。そのあと、ローマ皇帝コンスタンティヌスが没した年、すなわち337年に司教に選ばれた。生涯についてわかることは乏しく、断片的な碑文、書簡六通、『リベリウス目録』と『教皇列伝』の短い記事などが、主な手がかりである。
『教皇列伝』によれば、彼は十八人の司祭、四人の助祭、九人の司教を任命し、その中にアレッツォの司教ドナトゥスがいたという。ただし、これらの叙任は歴史というより伝承に近い。彼の司教職の時代に、使徒座尚書院が創設されたとされる。これはカトリック教会で最も古い部局で、運営はローマの行政の手続きに倣っていた。また、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂や、当時ユリウス聖堂と呼ばれた十二使徒聖堂も、彼の名に結びつけられている。
即位して間もなく、エウセビオスに率いられた東方の司教団が、アレクサンドリアの司教座を求めるアリウス派の候補のために、ユリウスとの交わりを求めてきた。一方、ニカイア派のアタナシオスは、ティルスの公会議で司教座を追われたのち、これを取り戻しており、彼もまた、自らの立場を支持してもらうために使節を送った。ローマの司教は調停を提案したが、アタナシオスは皇帝コンスタンティウス2世によって再び追放され、聖職者を連れてローマに逃れてきた。ユリウスは彼と交わりを結び、そのため、アリウス派の代表団は反発した。彼らは、ローマ司教が上訴審の裁判官の立場をとり、ニカイア公会議が認めた教会管轄の地域分割を無視したと考え、ローマで開かれる会議への出席を拒んだ。ユリウスは、書簡を交わして教会の一致を具体的に示す慣習に従っただけだと主張した。340年か341年に開かれたローマの会議は、アタナシオスに対抗した人物の選出を取り消した。
343年には、二人の皇帝の招きで、サルディカ公会議が開かれた。東方と西方の代表団は、別々に席につき、互いを破門した。西方の司教たちは、ニカイア派の立場に立つ信条を作り、ローマの司教座の首位を法的に基礎づけようとしたが、すぐには効果を持たなかった。346年にアタナシオスがアレクサンドリアに戻ってからは、ローマの司教座はしばらく目立たなくなったが、ユリウスは、サベリウス主義の疑いをかけられたアンキュラのマルケロスの復権にも働いた。こうした出来事は、ペトロとパウロを継ぐ「使徒座」の首位を主張し始めた西方と、信仰の受容と伝達における優先を主張する東方との亀裂を示している。
残る書簡六通は、ギリシア語のものとラテン語のものがあり、すべてアリウス派をめぐる論争に関わる。遺体は、アウレリア街道のカレポディウスのカタコンベに葬られ、790年に教皇ハドリアヌス1世が、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂へ移し、今もそこにある。カトリック教会では聖人として敬われている。
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