伝記
ヨハン・バイエルは、1572年にバイエルン地方のラインという町(ドナウ=リース地方)に生まれたドイツの法律家である。名はヨーハン、姓はバイアーやバイヤーとも表記される。1592年、20歳のときにインゴルシュタット大学で哲学と法学の勉強を始め、その後、アウクスブルクへ移り住んで弁護士として働き始め、生涯のほとんどをそこで過ごした。亡くなるまで市議会付の法律顧問を務めたとされるが、その就任を1612年とする説もある。仕事のほかに考古学や数学にも関心を持っていた。独身のまま、1625年3月7日に亡くなった。
しばしば天文学者として紹介されるが、ティコ・ブラーエやガリレオ・ガリレイのように天体観測を行った人物でも、コペルニクスやケプラーのように天体理論を築いた人物でもない。星図書を1編著しただけで、それ以外の天体観測記録や天体理論は知られていない。それでも、非専門家の彼が天文学界にその名を知られるようになったのは、1603年、31歳のときにアウクスブルクで刊行した全天星図『ウラノメトリア』によるものである。正式な書名は、ラテン語で「すべてのアステリズムのウラノメトリア」を意味する。この星図はアウクスブルクの著名な市民二人に捧げられ、天球全体を初めて覆った星図であった。それ以前の星図は、不完全であいまいなプトレマイオスの星表に基づいていた。バイエルはプトレマイオスの48星座に、南半球の12星座を加えた。この星図はティコ・ブラーエの観測を基にしており、アレッサンドロ・ピッコローミニが1540年に著した星図から借りた可能性もあるが、さらに1000個の星を加えたとされる。星図は51枚とされ、48星座の各1枚と南天の1枚、平面天球図2枚から成り、南天はオランダ人航海者二人の測量を参照したという。
『ウラノメトリア』が以前の星図と異なっていたのは、北半球の中緯度地方では見えない、天の南極付近の星々からなる星座を収録した点である。これらはバイエル星座と呼ばれ、インディアン座、カメレオン座、きょしちょう座、くじゃく座、しいら座、つる座、とびうお座、ふうちょう座、ほうおう座、みずへび座、みつばち座、みなみのさんかく座の12である。しいら座は日本ではかじき座とも呼ばれ、みつばち座は後にはえ座に改名された。また、図版上で各星にギリシア文字やローマ文字を添え、この方法は後の天文学者によって恒星の表示法として転用され、バイエル符号と呼ばれる。ギリシア文字の最初のアルファを最も明るい星に、ベータを二番目に明るい星に付け、文字が足りなければローマ文字を使うという命名法は、現在でも公式に使われている。月のクレーターの一つには、彼にちなんでバイエルの名が付けられた。
1627年に同じアウクスブルクで『キリスト教星図』を編んだ人物は、バイエルと同一人物ではないかと考えられたことがあった。同郷で、同じ法律家で、ともに星図書を刊行していたからである。しかしバイエルは、「プロテスタントの口」とあだ名されるほど熱心なプロテスタント信徒であり、カトリックの教義に則って作られた『キリスト教星図』の側とは対立する立場にあったため、この説は現在では否定されている。
同じ年に亡くなった人物
- アンナ・ヴァーサ (1625年没)
- オノレ・デュルフェ (1625年没)
- ジョン・フローリオ (1625年没)
- エンノ3世 (1625年没)
- アントニオ・デ・エレーラ・イ・トルデシリャス (1625年没)
同じ地域に関係する人物
- フランツ・フィッシャー (1947年没)
- ベルンハルト・ヴィッキ (2000年没)
- ゲオルク・トマラ (1999年没)
- フリードリヒ・クリスティアン (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯) (1769年没)
- ヨハン1世 (バイエルン公) (1340年没)