伝記
宮澤喜一は、1919年10月8日に東京市で、宮澤裕とこと夫妻の長男として生まれた。本籍地は広島県福山市である。母ことは、司法大臣や鉄道大臣を務めた小川平吉の二女だった。父の裕は当時山下汽船に勤めていたが、すでに政界を志し、広島県から国会へ出る準備を進めていた。東京高師附属小学校から旧制武蔵高等学校に進み、時流の軍国主義には染まらず、辛辣な反軍的冗談を飛ばしていたという。東京帝国大学の法学部政治学科に在学中の1939年、第6回日米学生会議に参加するため渡米し、のちに妻となる女性と知り合った。母が謡をしていた影響で、中学から大学まで謡を習い、能も好んだ。
1942年1月に大蔵省に入り、終戦時には戦争保険を担当していた。1945年8月、東久邇宮内閣が発足すると、大平正芳とともに津島壽一蔵相の秘書官となり、1949年には池田勇人蔵相の秘書官として講和条約の準備交渉に携わった。1951年9月のサンフランシスコ講和会議には全権随員として参加した。1952年に池田が通産大臣として不信任されたことに殉じるように大蔵省を退官し、池田の強い勧めで翌年の参議院議員選挙に広島県から出馬して当選した。1962年の第2次池田改造内閣で経済企画庁長官として初入閣し、所得倍増政策の一翼を担って、自民党のニュー・ライトを代表する若手として注目された。1967年に衆議院に鞍替え出馬して当選し、通産相、外相、総務会長などを歴任した。
党内では池田派の宏池会に属し、1973年に派閥横断のグループ「平河会」を結成した。早くから総裁候補と目されたが、1980年の大平の急死後は、田中角栄との関係の悪さが響いて、同じ宏池会の鈴木善幸が総裁となった。鈴木内閣では内閣官房長官を務め、首相の失言の後始末をこなして、実務能力が印象づけられた。安倍晋太郎、竹下登とともに「安竹宮」と呼ばれ、「ニュー・リーダー」の代表格となった。1986年に宏池会会長となり、中曽根内閣では、プラザ合意後の急激な円高の是正に蔵相として奔走したが、有効な手を打てなかった。1987年秋に中曽根の後継を竹下、安倍と争ったが、竹下が総裁になった。竹下内閣で副総理兼蔵相となり消費税導入に尽力したが、1988年にリクルート事件が発覚すると、未公開株の譲渡の倫理的責任を問われて辞任した。
1991年、海部俊樹の退陣に伴う総裁選挙で勝ち、72歳で内閣総理大臣に就任した。参議院議員経験者としては初めての首相で、官僚出身の最後の首相でもある。国連平和維持活動協力法の審議に手間取ったが、成立させて自衛隊をカンボジアに派遣した。江沢民の要請を受け、天皇の訪中も実現した。1992年8月には金融機関への公的資金投入を発言したが、強い反対で取り下げ、その後は長く政治家が口にしにくい話題になった。政治改革に消極的だったことから、1993年6月に内閣不信任案が可決され、総選挙で自民党は過半数を割った。野党勢力が結集して細川内閣が誕生し、宮澤は自民党長期支配38年と55年体制の最後の首相となり、15代で政権を明け渡した徳川慶喜になぞらえて「自民党の徳川慶喜」と言われた。2007年6月28日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- エドワード・G・サイデンステッカー (2007年没)
- ドリス・チュライビ (2007年没)
- Edouard Gagnon (2007年没)
- ミヨシ・ウメキ (2007年没)
- パオロ・ピレリ (2007年没)