HISTORICAL PERSON · 2007年没

シドニィ・シェルダン

アメリカの脚本家・小説家。映画『』でアカデミー脚本賞を受賞し、1969年から小説を執筆。『ゲームの達人』『真夜中は別の顔』などの代表作がある。

生涯
2007年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ランチョ・ミラージュ)
出生地
アメリカ合衆国(シカゴ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

シドニィ・シェルダンは、1917年2月11日にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴで生まれた脚本家、小説家である。もとの姓はシェヒテルで、のちに改めた。シェルダンという名は、アナウンサーになりたくて使い始めた名前だったという。ユダヤ系の家庭に生まれ、父アッシャー(通称オットー)は宝石店の支配人、母はナタリー・マーカスといった。10歳のときに、一編の詩を5ドルで売り、最初の稼ぎを得た。大恐慌の時代にはさまざまな仕事をし、デンバーのイースト高校を卒業すると、奨学金を得てノースウェスタン大学に進み、劇団のために短い芝居を書いた。しかし家計を助けるため、半年で退学しなければならなかった。

1937年にハリウッドに移り、脚本の審査や、低予算映画の共同執筆に加わった。第二次世界大戦中は、陸軍航空隊の戦時訓練部隊のパイロットとして入隊したが、部隊が解散になり、持病の椎間板ヘルニアのため、出征前に除隊した。戦後はブロードウェイでミュージカルの作者として評判を得て、多作で知られた。一時は、改作した『メリー・ウィドウ』など三本のミュージカルが同時に上演されていた。1959年には、グウェン・ヴァードンが主演した『レッドヘッド』でトニー賞を受けた。その後ハリウッドに戻り、最初の仕事となった『独身者とボビーソクサー』で、1947年のアカデミー脚本賞を受賞した。1948年の『イースター・パレード』の脚本に加わり、1950年の『アニーよ銃をとれ』では単独の脚本家を務めた。いずれもアーヴィング・バーリンの歌を使った作品だった。

テレビが新しい媒体になると、そちらにも進んだ。「お金が必要だったのだと思う」と本人は語っている。『パティ・デューク・ショー』は、ヘレン・ケラーを演じたパティ・デュークの演技に感心して企画し、7年間ほぼ毎回の脚本を書いたという。1965年には『かわいい魔女ジニー』を創り、製作と脚本を担った。5年の間に、ほとんどの話を書き、時には三つの別名を使ったが、創作者、製作者、権利者、脚本家として自分の名があまりに頻繁に表示されると感じたためだと、のちに語っている。1979年には『探偵ハート&ハート』の原案を作り、脚本も書いた。この番組は5シーズン続いた。

小説を書き始めたのは50歳を過ぎてからである。『かわいい魔女ジニー』の最終年に小説を試みようと考え、毎朝、9時から正午まで、スタジオの秘書にすべての電話を受けさせて、口述で小説を書いた。1969年に書いた第1作『顔』は、アメリカ探偵作家クラブのエドガー賞の処女長編賞の候補になった。第2作『真夜中は別の顔』は、ニューヨーク・タイムズのベストセラー第1位となり、のちに映画化された。以後も『血族』『天使の自立』『ゲームの達人』などが続いた。『血族』は、オードリー・ヘプバーン主演で映画『華麗なる相続人』(1979年)となった。映画化は少なく、テレビドラマ化された作品のほうが多い。日本でも、中谷美紀の主演で『ゲームの達人』が連続ドラマになった。小説には、厳しい世の中で粘り強く生きる女性がよく登場し、読者を引き込む仕掛けに富んでいた。全作品の売り上げは3億部を超え、51の言語に訳されている。

双極性障害を患っており、17歳のときに自殺しかけたことがあった。エレベーターに乗ると冗談を言う癖があり、「エレベーター・ジョーカー」というあだ名がついた。2007年1月30日、肺炎の合併症のため、カリフォルニア州の病院で亡くなった。89歳だった。ウエストウッド・メモリアルパークに埋葬された。

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