伝記
リシャルト・カプシチンスキは、1932年3月4日に生まれ、2007年1月23日に没したポーランドのジャーナリストであり、作家である。「20世紀の最も偉大なジャーナリスト」とも評され、ノーベル文学賞の候補にもたびたび挙がったが、受賞はしなかった。1956年から1981年の間に、27の革命やクーデターを取材した。
当時の東ポーランド領ピンスク(現在はベラルーシ領)で、小学校教師のマリア・ボプカとユゼフ・カプシチンスキの子として生まれ、翌年に妹のバルバラが生まれた。貧しい家庭に育ったため、のちにアフリカでは、食べ物が乏しく誰もがはだしなのは自分の育ちと同じで、家にいるように感じたと語った。1939年に第二次世界大戦が始まり、赤軍がピンスクを占領すると、1940年に母は東への強制移送を恐れて子どもたちとワルシャワ近郊へ逃れ、そこで父と再会した。1945年に一家はワルシャワに移り、少年はスタニスワフ・スタシツ高校に通い、アマチュアのボクサーでサッカー選手でもあった。1950年に高校を卒業し、青年向けの新聞「若者の旗」で働き始め、同年にワルシャワ大学に入って、のちに歴史学を学んだ。1951年に東ベルリンの青年祭に参加したのが、初めての海外旅行である。1952年に同級生のアリツィア・ミェルチャレックと結婚し、1953年に娘ゾフィアが生まれた。1955年にはクラクフの新都市ノヴァ・フタの建設現場の過酷な労働と生活を批判する記事を書き、23歳で金十字功労章を受けた。
1956年に修士号を取得して学業を終えた。同年にインドへ派遣され、これが初めてのヨーロッパ以外の旅となった。以後、24歳のこのインド行きに始まり、発展途上の世界を旅して、戦争やクーデター、革命を報じ続けた。1957年には中華人民共和国に駐在して記事を書き、日本にも2か月ほど滞在して、のちに『帝国』や『黒檀』を邦訳する工藤幸雄と知り合った。その翌年、ポーランド通信社の通信員となり、その依頼でアフリカへ渡った。帰国後は雑誌「ポリティカ」の編集に携わった。1962年に再びアフリカへ渡り、1967年にソ連へ、さらに南アメリカにも赴いた。脱植民地化の時代にはポーランド通信社のアフリカでただ一人の通信員を務め、アジアやラテンアメリカにも旅を続けた。1994年にはドイツ学術交流会の客員としてベルリンに滞在した。2003年にはアストゥリアス皇太子賞のコミュニケーション・人文部門を受賞した。
主な著作に、『皇帝ハイレ・セラシエ』(1978年)、『サッカー戦争』(1978年)、『帝国』(1993年)、『黒檀』(1998年)がある。皇帝の没落を描いた『皇帝』は、共産主義時代のポーランドへの風刺とも見なされた。サルマン・ラシュディは、何千人ものジャーナリストが束になってもカプシチンスキ1人にかなわないと称賛した。2007年1月23日、ワルシャワの病院で心臓の手術のあとに亡くなった。死後には、1965年から1970年代にかけてポーランド人民共和国の諜報機関と協力関係にあったと報じられた。妻アリツィアは、国外で活動する記者が情報提供にかかわるのは普通のことだと夫が話していたと述べている。
同じ年に亡くなった人物
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- Victoriano Leguizamon (2007年没)
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