伝記
ヤコブ・ベーメは、1575年に北ドイツ・オーバーラウジッツのゲルリッツ近郊、アルト・ザイデンベルクに生まれた。ここは現在、ポーランド領スリクフの一部になっている。靴職人としての修養を終え、1599年以降はゲルリッツで靴職人として働き、家庭を設けた。ルター派の信仰を背景に、パラケルススらの新プラトン主義に影響を受けた独特の自然把握を展開した神秘主義者で、ドイツ語で主に著述した最初の思想家でもある。信奉者から「ドイツの哲人」という異名で呼ばれた。
1612年、最初の著作『アウローラ』を完成させた。のちの書簡でベーメは、この著述の根底にそれ以前の神秘体験があり、「12年もの間それに関わった」と述べている。正規の哲学教育も中等教育も受けていない靴職人にとって、この作業が困難を極めたことは想像に難くない。ベーメ自身もこの最初の著作が文体と内容の両面で晦渋であることを認めていたが、そこには根本的な思想の萌芽が現れているとも広く認められている。もともと公開する意図はなかったが、友人に乞われて手稿を貸すうちに写す者も出て、『アウローラ』はゲルリッツ市民に知られるようになった。
これをルター派正統教義をおびやかすものと見たのが、当時ゲルリッツの監督牧師であったグレゴール・リヒターである。リヒターは説教壇からベーメを異端思想の持ち主として非難し、これに呼応した市民は自邸に攻撃をするなどした。市の当局の仲裁で、ベーメは以後著述をしない、リヒターは教会で非難をやめるという妥協が定まり、ベーメは著述を控えることとなった。一方、『アウローラ』を好意的に受け入れる者もおり、貴族階級の読書人はベーメの精神的支援者となり、錬金術など当時の自然哲学を伝えるとともに読書の機会を与えた。ベーメの著作に見えるラテン語は、こうした友人たちから学んだものがほとんどだが、パラケルススの著述は直接読んだと証言している。
しかしリヒターは教会での攻撃をやめず、友人たちも続きの著作を求めた。ベーメは沈黙が平和をもたらさないと知り、熟成した思想を表明することが自己の使命だと確信するに至る。1618年に著述を再開し、1624年の死までの6年間に、『シグナトゥーラ・レールム』をはじめとする幾つかの大著と、付随する小論、信奉者宛の書簡などで精力的に思想を語った。1623年には小論を集めて『キリストへの道』を出版したが、この著作も激しい議論と敵意の的となり、ベーメはその対応に追われ、家族をゲルリッツに残してドレスデンに一時滞在することになる。その後ゲルリッツに戻り、病を得て、1624年11月17日に没した。
ベーメは生涯、自覚としてはルター派の信仰に忠実であった。その思想は、しばしば自然哲学として解釈される。彼が見たヴィジョンは万物の神的な実相ともいうべきもので、あらゆる存在の中に神のドラマを見た。神の根源を「無底」と呼び、そこから世界が展開すると考え、その思想は敬虔主義やドイツ観念論、さらに近代の神秘学にも影響を与えている。ヘーゲルはベーメを「ドイツ最初の哲学者」と呼んだが、その「混乱したドイツ語」には辟易していたという。
同じ年に亡くなった人物
- ディルク・ファン・バビューレン (1624年没)
- アンリ2世 (ロレーヌ公) (1624年没)
- トーマス・ファン・エルペ (1624年没)
- チャールズ・ハワード (初代ノッティンガム伯爵) (1624年没)
- フランチェスコ・コンタリーニ (1624年没)
同じ地域に関係する人物
- ハインリヒ4世 (ザクセン公) (1541年没)
- ゾフィー・フォン・ブランデンブルク (1568-1622) (1622年没)
- ユリウス・ヒューブナー (1882年没)
- ハンス・メイヤー (1929年没)
- ヴィルヘルム・ペッファー (1929年没)