伝記
スロボダン・ミロシェヴィッチは、1941年8月20日にベオグラードの東約70キロの町ポジャレヴァツで生まれたセルビアの政治家である。モンテネグロ出身の家系で、母は教師、父は神学者だった。ドイツ・イタリアによる占領下で育ち、兄に、のちに外交官となるボリスラヴがいた。戦後に両親は別れ、父は1962年に、母は1972年に、母方の叔父も自ら命を絶った。1953年に共産主義者同盟に加わり、少年時代は学校の共産主義科目が得意で、「小レーニン」と呼ばれた。ベオグラード大学法学部で、のちに自らを引き立てるイヴァン・スタンボリッチと親交を結び、1964年に卒業した。
卒業後はガス会社に入り、1973年に社長となり、1978年にはベオグラード銀行の頭取になった。政界に転じ、1978年から1982年にベオグラードの共産主義者同盟の幹部となった。1986年に中央委員会幹部会議長に就任し、1987年4月にコソボを訪れた際、アルバニア人から迫害されたと訴えるセルビア人たちにコソヴォ・ポリェで演説し、守ると語った。これでセルビア民族主義者の間で「守護神」として人気を得始めた。同年、スタンボリッチが辞任したのを受けてセルビア共和国幹部会議長に就き、のちにこの恩人は誘拐され、2003年に遺体で発見された。1990年には新設のセルビア共和国大統領に就任し、1992年に再選された。1997年にはユーゴスラビア連邦共和国の第3代大統領となった。治安機関の報告書に毎日目を通したと言われ、政敵や野党を監視し、民主化運動を弾圧した。
1991年にスロベニアとクロアチアの独立に軍事介入し、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナの独立にも介入した。1998年以降に激しくなったコソボ紛争は治安部隊で弾圧したが、1999年に北大西洋条約機構による空爆を受け、コソボの国連管理を容認した。2000年秋、再選を目指した大統領選挙で不正に怒った国民が抗議行動を起こし、いわゆる「ブルドーザー革命」により退陣して、ヴォイスラヴ・コシュトニツァに座を譲った。2001年4月に職権濫用と不正蓄財の容疑で逮捕され、7月にはオランダのハーグにある旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所に身柄を移された。コソボ紛争などで人道に対する罪に問われ、裁判では法廷の正当性を否定し、弁護人を立てずに自ら弁護した。
裁判は高血圧など体調の不具合もあって長引いた。2006年3月11日朝、収監中の独房で死亡しているのが発見され、自殺説や毒殺説も出たが、法廷の報告は持病の高血圧と心臓疾患による心臓発作が死因と結論づけた。64歳だった。セルビア人の間で評価する声は少なく、制裁による生活の困窮や、紛争での敗北、コソボの喪失を理由に挙げる人が多い。一方で、発展から取り残された年金生活者や失業者、コソボからの難民には、慕う者もいる。妻のミリヤナ・マルコヴィッチは、大学で知り合い、のちに党の党首として夫の権力を支えた。死後の2007年3月には、墓にサンザシを突き刺して悪魔祓いの儀式を行う者が現れ、話題になった。2016年のラドヴァン・カラジッチへの判決文には、ミロシェヴィッチに生前問われた罪状について無罪とする内容が含まれていた。
同じ年に亡くなった人物
- Rut Brandt (2006年没)
- ヒュー・トンプソン (2006年没)
- Elizabeth Allen (2006年没)
- ジミー・ジョンストン (2006年没)
- ネリー・コナリー (2006年没)
同じ地域に関係する人物
- コルネリス・サフトレーフェン (1681年没)
- ヘラルト・ドウ (1675年没)
- ヘルクレス・セーヘルス (1638年没)
- ウィレム・ヘンドリック・ケーソン (1956年没)
- ヘンドリック・ウィレム・メスダフ (1915年没)