伝記
グレン・フォードは、本名をグウィリン・サミュエル・ニュートン・フォードといい、1916年5月1日にカナダ・ケベック州で生まれた俳優である。父ニュートン・フォードは鉄道会社に勤め、カナダ初代首相ジョン・A・マクドナルドの親戚にあたり、アメリカ第8代大統領のマーティン・ヴァン・ビューレンとも縁戚だった。母はハンナ・ウッドである。幼いころに家族でアメリカへ移り、カリフォルニア州のヴェニスから、サンタモニカに移り住んだ。移住の時期は、6歳の1922年とも8歳のときともされる。サンタモニカ高校を卒業すると小さな劇団で演技を始め、高校時代の仕事ではウィル・ロジャーズのもとで乗馬を覚えた。父は演技を志すことに反対せず、ただし「自動車を分解して組み立てられるようになれ。家の建て方も覚えろ。そうすれば、いつも何かが残る」と助言した。フォードはこの教えに従い、1950年代の人気絶頂期にも、自宅で配管や電気の工事をこなしていたという。父は1940年に50歳で亡くなった。フォードは1939年11月10日に、アメリカの市民権を取得した。
1937年に初めて映画の役を得て、1939年にコロムビア映画に所属した。芸名は、父の故郷にちなむグレンフォードの名から取ったという。初期はB級の作品が続いたが、1940年の『ザ・レディ・イン・クエスチョン』でリタ・ヘイワースと共演して注目され、1941年の『我らの夜は終わる』で、ナチス占領下のヨーロッパを逃れる19歳のドイツ人の青年を演じて、新聞の批評で絶賛された。この作品をフランクリン・ルーズヴェルト大統領がホワイトハウスで見て感銘を受け、フォードを大統領の誕生日の舞踏会に招き、これに感激して民主党員として登録した。ところが、その後7年間の契約期間は、コロムビアが低予算の作品に出し続けたため落胆した。次の『掠奪の町』は初めての西部劇で、この分野は終生の仕事となった。ウィリアム・ホールデンとはこの作品で共演して親友となった。
第二次世界大戦が始まると、1942年にアメリカ海兵隊予備役に志願し、1943年に現役勤務となったが、生涯の持病となる消化器潰瘍を患い、出征しないまま1944年に傷病除隊となった。1958年には海軍予備員に志願し、俳優業と兼ねて1970年まで務めた。戦後の1946年、リタ・ヘイワースと共演した『ギルダ』で一躍有名になり、『復讐は俺に任せろ』(1953年)、『暴力教室』(1955年)、『決断の3時10分』(1957年)など数多くの作品に出た。1956年3月と1969年8月には日本を訪れた。前者は、京マチ子と共演した『八月十五夜の茶屋』の撮影のためである。1961年の『ポケット一杯の幸福』で、ゴールデングローブ賞の主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞した。同賞には3度候補に挙がっている。1978年の『スーパーマン』では、主人公の育ての父を演じた。1992年には第二次世界大戦での働きに対してレジオンドヌール勲章を受けた。私生活では4度結婚し、最初の妻は女優のエレノア・パウエルで、息子は俳優である。2006年8月30日に没した。
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