伝記
アウグスト・ホセ・ラモン・ピノチェト・ウガルテは、1915年11月25日、チリ第2の都市バルパライソに、バスク系フランス人をルーツにもつ家に生まれた政治家で、軍人である。チリ陸軍士官学校を卒業して1937年に陸軍に入り、着実に出世して、1971年1月に陸軍中将となった。1973年8月23日に陸軍総司令官に就任した。同年9月11日、3年前に社会主義政権として初めて自由選挙で成立したサルバドール・アジェンデ政権をクーデターで倒し、翌12日に結成された軍事評議会の議長となった。クーデター直後に戒厳令が敷かれ、ビクトル・ハラをはじめとする人民連合系の市民が多数サンティアゴのスタジアムに集められて殺害された。クーデター後の1日で確認された遺体は2,700体に上ったという。
1974年3月に発表された国家再建の方針により、議会制民主主義を否定して軍事政権を長期化させ、政治や教育、経済などチリのあらゆる部分を改変する姿勢を打ち出した。大学は軍人の統制下に置かれ、思想統制のため、マルクスらの社会主義関連の書物や、パブロ・ネルーダ、カフカ、ゴーリキー、フロイトなどの書物が焚書にされた。1974年6月27日にチリ大統領に就任し、1990年3月までの16年弱にわたり、アメリカの政財界、チリ国内の保守層や軍部の支援を受けて強権政治を行い、「独裁者」と呼ばれた。2004年のチリ政府の公式報告書では、1973年から1990年までの死者・行方不明者は合計3,196人で、国際的な推計ではもっと多いともいわれる。拷問などの人権侵害を受けた人は10万人とも推定され、亡命者は当時の総人口の約10%の100万人に達した。1974年にはルター派教会の監督とカトリックの司教が面会して、拷問をやめるよう申し入れたが、ピノチェトは共産主義を根絶するために必要だと述べて、拷問を正当化した。国連総会では1974年以来4年連続で、対チリ非難決議が採択された。
経済政策では、ミルトン・フリードマンの新自由主義を実行し、その弟子であるシカゴ・ボーイズと呼ばれる経済学者を多く招いた。政権奪取後は短期的には良好な成長を実現し、フリードマンはこれを「チリの奇跡」と呼び、支持者は「アジェンデの失政で混乱した経済を立て直した」と評価した。一方で、1973年から1990年までの実質成長率は年平均3.70%にとどまり、輸入代替工業化の時代の3.86%を下回った。1975年にはマイナス12.9%、1982年にはマイナス14.1%と恐慌に直面した。1980年代の失業率は平均22.5%に上り、貧困率は40%に達し、富の集中が進んだ。他方、乳児死亡率は1970年から1985年にかけて、1000人当たり82.2人から19.5人に下がった。
外交では、1975年11月25日に周辺の軍事政権の情報当局者を集めて、反体制派を弾圧するコンドル作戦を立ち上げた。1988年10月5日の国民投票で任期の8年延長が否決され、反対が56%、賛成が44%となった。1989年12月の選挙でパトリシオ・エイルウィンが勝利し、1990年3月に大統領を辞任した。その後も陸軍総司令官にとどまり、1998年に退役して終身上院議員になった。同年、療養のために渡ったイギリスで、スペインの司法当局の要請を受けて逮捕された。2000年3月、病気を理由にチリへの帰国が認められた。2000年12月1日には、チリの判事が殺人と誘拐の罪で起訴したが、精神鑑定が行われていないとして、起訴はいったん無効とされた。2006年12月10日に没した。
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