伝記
シャミル・サルマノヴィチ・バサエフは、1965年1月14日、チェチェン南東部のヴェデノ近郊のドゥイシュニ・ヴェデノ村に生まれたチェチェン独立派の強硬派指導者である。名は、19世紀のカフカース戦争でロシアに抵抗した指導者イマーム・シャミールにちなむ。一族には、ロシアの支配に対する抵抗に関わった歴史があるとされ、祖父はロシア革命後に北カフカース首長国をつくろうとした試みに加わった。チェチェン人の大半と同じく、バサエフ家も第二次世界大戦中にカザフスタンへ強制移住させられ、帰郷が許されたのは1957年であった。
少年時代はサッカーに熱中し、1982年に村の学校を卒業して、ソ連空軍で2年間、飛行場の消防員として勤務した。その後4年間は、ヴォルゴグラード州の国営農場で働き、モスクワに出て、1987年にモスクワ土地整理技師専門学校に入ったが、成績不振で1年後に除籍された。しばらくはコンピューターの売買などで生計を立て、1989年から1991年までイスタンブールのイスラム大学で学んだとされる。1991年にはカフカス人民同盟軍に加わり、同年8月のクーデター未遂ではエリツィン側に立ち、ロシア連邦最高会議ビルの防衛に参加した。
クーデターの後、チェチェンに戻り、1991年11月にトルコでアエロフロートの旅客機のハイジャック事件を起こした。1992年にはカフカス人民同盟軍の司令官となり、1992年から1993年にかけて、武装勢力「チェチェン大隊」を率いてアブハジア紛争に介入し、グルジア政府軍と戦った。この背後には、ロシア軍参謀本部情報総局の工作があったと言われるが、バサエフは1996年の新聞のインタビューで、ロシア軍の部隊で訓練を受けたという話を否定し、チェチェン人の支持者も、ロシア諜報機関との協力の疑いを常に否定してきた。
1994年12月に第一次チェチェン戦争が始まると、ジョハル・ドゥダエフの指揮下に入り、各地を転戦して、グロズヌイの守備隊指揮官に任命された。1995年6月、ブジョンノフスクの病院を占拠する事件の首謀者となり、和平交渉を拒んでいたロシア政府の譲歩を引き出して、民族の英雄と見られるようになった。一方、報復も激しく、彼の生地ヴェデノはロシア空軍の空爆を受け、家族11人が犠牲になった。1996年にはマスハドフとともに、グロズヌイの奪還を計画し、指揮したとされる。戦争がハサヴユルト合意で一応の終結を見た後の1997年1月、大統領選に立候補したが、穏健な独立派のアスラン・マスハドフに敗れた。マスハドフ政権では1997年から1998年まで副首相を務めたが、しだいに路線の対立が深まった。
1999年には、アラブ人の野戦指揮官ハッターブとともに隣国ダゲスタンに侵入し、第二次チェチェン戦争の原因をつくった。2002年のモスクワの劇場占拠事件の背後にもいたとされ、2004年のベスランの学校占拠事件などロシア国内の主要なテロ事件では、自らのウェブサイトで犯行声明を出した。2005年3月にマスハドフがロシアの連邦保安庁の特殊部隊に殺害されると、「聖戦の継続」を呼びかける声明を出した。2006年6月、ドク・ウマロフ大統領により副大統領に任命されたが、7月10日、ロシア南部のイングーシ共和国で爆発により死亡した。41歳であった。死因はロシア軍の作戦によるものとも、武器取引の際の事故ともされ、説は分かれる。テロも辞さない強硬路線は、国内では一定の支持を集めたが、穏健派や外国の支援者からは、独立派全体のイメージを損なうと批判された。
同じ年に亡くなった人物
- ルース・ブラウン (2006年没)
- ミッキー・スピレイン (2006年没)
- ジャン=フランソワ・ルヴェル (2006年没)
- ピーター・ボイル (2006年没)
- Al Harker (2006年没)
同じ地域に関係する人物
- ナタリア・エステミロワ (2009年没)