伝記
オーウェン・チェンバレンは、1920年7月10日にアメリカのサンフランシスコで生まれた物理学者である。父W・エドワード・チェンバレンは著名な放射線科医で、母はジェネヴィーヴ・ルシンダ・オーウェンといった。ダートマス大学で物理学を学び、1941年に学位を得て、友愛会のセータ・カイにも所属した。大学院はカリフォルニア大学バークレー校で物理学を学び始め、第二次世界大戦の勃発まで在籍した。
1942年にマンハッタン計画に加わり、のちに共同研究者となるエミリオ・セグレとともに、バークレーとニューメキシコ州のロスアラモスで研究した。1943年にベアトリス・バベッテ・カッパーと結婚し、3人の娘と1人の息子をもうけた。のちに1991年にジューン・スタインガート・グリーンフィールドと再婚し、最後はセンタ・ピュー・ガイザーと結婚した。
戦争が終わった1946年、シカゴ大学でエンリコ・フェルミのもとで博士号のための研究を続けた。フェルミは、チェンバレンが稀有な才能を持つ実験物理学のため、より名声の高い理論物理学を後回しにするよう勧め、師として重要な役割を演じた。1949年にシカゴ大学から博士号を受けた。1948年にバークレーへ教職員として戻り、1958年に教授に推薦された。バークレーの研究所でセグレと再び合流し、クライド・ウィーガンド、トーマス・イプシランティスとともに、強力な加速器を用いた陽子と陽子の散乱を調べた。1955年、一連の陽子散乱実験の結果として、陽子の鏡像にあたる負の電荷をもつ粒子、反陽子が発見された。この「反陽子の発見」により、1959年にセグレとともにノーベル物理学賞を受賞した。のちの研究には、時間射影箱(TPC)検出器や、スタンフォード線形加速器センターでの研究が含まれる。
政治的にも活発で、平和や社会正義を訴え、ベトナム戦争には明確に反対した。政治上の主張で投獄されたソ連の科学者サハロフ、オルロフ、シチャランスキーを支援する科学者の一人だった。1980年代には、核兵器開発の凍結を求める運動の成立にも貢献した。1959年からはハーバード大学で教えていたとも伝えられる。1985年にパーキンソン病と診断され、1989年に教壇を去った。2006年2月28日、85歳でその病気の合併症により亡くなり、遺体は火葬された。
同じ年に亡くなった人物
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