伝記
シャーリー・アニタ・チザムは、旧姓をセントヒルといい、1924年11月30日に生まれ、2005年1月1日に没したアメリカ合衆国の政治家であり、教育者、作家である。1968年末の下院選挙に当選して、アフリカ系アメリカ人女性として初めて連邦議会の下院議員となり、1969年から1983年まで7期14年間、議員を務めた。1972年には民主党の大統領指名候補を決める予備選挙に出馬した。二大政党では初の黒人候補であり、民主党では初の女性候補で、党大会で152票を獲得した。
ニューヨーク市ブルックリン区に生まれた。父チャールズ・セントヒルは英領ギアナの出身で、キューバやバルバドスでの暮らしを経てニューヨークに来た移民であり、母ルビー・シールはバルバドスから移り、お針子として働いていた。夫婦はバルバドス人の暮らすブルックリン中央部の地区で知り合い、長女のシャーリーに続いて、次女オデッサ、三女ミュリエルをもうけた。父は特別な技能のない労働者で、パン屋の下働きや工場で働いたが、暮らしは苦しく、1928年の初めにシャーリーは妹たちとともに、バルバドスの母方の祖母エミリー・シールに預けられ、約7年を過ごした。のちに自伝『買われず、支配されず』(1970年)で、厳格な英国流の学校に通わせてくれたことを、両親の大事な贈り物と振り返っている。10歳でアメリカに戻って女子高校を卒業し、1946年にブルックリン・カレッジで社会学を専攻して学士号を取り、1951年にコロンビア大学で初等教育学の修士号を得た。卒業の翌年にブルックリンの保育園の園長となり、1953年からはマンハッタンのチャイルドケアセンターの所長を務めた。
1964年にニューヨーク州議会議員選挙に出馬して当選した。1968年には、ニューヨーク州の第12区の民主党候補として、共和党候補ジェームズ・ファーマーを破り、下院議員となった。最初に任命された農業委員会は、都市部の選出である自分の居場所ではないと憤慨して、退役軍人問題委員会に配置換えを求めた。「私の選挙区は、樹木の数より退役軍人の数の方が多い」と語って、これを受けた。1970年に保育法案を起草し、法案は上下両院を通過したが、ニクソン大統領が「アメリカの子どもをソ連化する法案だ」として拒否権を発動し、無効となった。1971年から1977年までは労働教育委員会に属し、同年に連邦議会の黒人議員幹部会、1977年に女性議員幹部会の創立メンバーとなった。下院では一貫して、都心部のスラム街の住民が機会を活用できるよう努め、徴兵制に声高に反対して、軍事費を減らして教育や保健の予算を増やすよう主張した。
1972年の大統領選挙の民主党予備選挙では、選挙運動中に3度も暗殺されかけながら、12州で選挙戦を行った。支持層は人種的にさまざまで、全米女性機構も支持した。「勝つ見込みがなくても、純然たる意志の力を見せ、現状に泣き寝入りしないことを示すため」に出馬したと語った。同年5月、信条の異なるジョージ・ウォレスが銃撃されると病院へ見舞い、黒人の支持者から批判を浴びたが、数年後、ウォレスは最低賃金の法案を通すために南部の下院議員の票をまとめる手助けをしたという。1982年に再出馬を見送って引退し、教育分野で活動を再開して、大学で政治学と女性学を教えた。1993年、クリントン大統領からジャマイカ大使に指名されたが、健康上の理由で辞退した。2005年1月1日、フロリダ州オーモンドビーチで死去した。「シャーリー・チザムにはガッツがあった」と思い出してほしい、と語っていた。
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