伝記
ヘンリー・タウベは、1915年11月30日にカナダのサスカチュワン州で生まれ、2005年11月16日に没した、カナダ生まれのアメリカの化学者である。1983年に、金属錯体を中心とする電子移動反応の機構の解明により、ノーベル化学賞を受賞した。カナダ出身の化学者としては2人目の受賞者であり、サスカチュワン州の出身者としては今も唯一のノーベル賞受賞者とされる。
12歳で故郷を離れ、レジャイナに移ってルーサー大学付属の高校に通った。卒業後も同大学に残り、ポール・リーフェルドの実験助手を務めながら、大学1年の講義を受けた。のちにサスカチュワン大学に進み、1935年に学士号、1937年に修士号を得た。指導教官はジョン・スピンクスで、在学中にはのちに1971年のノーベル化学賞を受けるゲルハルト・ヘルツベルクにも学んでいる。続いてカリフォルニア大学バークレー校に移り、ウィリアム・ブレイのもとで1940年に博士号を取得した。大学院の研究は、塩素の酸化物と過酸化水素の水溶液中での光分解を扱った。バークレーで1941年まで講師を務め、カナダに戻るつもりで主要な大学に応募したが返事がなく、アメリカに残った。1942年にアメリカ合衆国へ帰化している。その後はコーネル大学の講師、助教授となり、第二次世界大戦中は国防研究委員会に関与した。1946年から1961年まではシカゴ大学で助教授、准教授、教授を務め、1956年から59年は化学科長だったが、管理の仕事は好まなかった。
1961年にスタンフォード大学に移り、1986年まで教授として、研究に集中しながら学部生と大学院生を教えた。名誉教授となってからも2001年まで研究を続け、亡くなるまで毎日のように研究室を訪れたという。1956年から1970年代まで、ロスアラモス国立研究所の顧問も務めた。コーネル大学での初期の研究は、酸素とハロゲンを含む酸化剤と、その酸化還元反応を、同位体で印をつけた酸素と放射性の塩素を使って調べるものだった。反応機構の研究に同位体を初めて使った1人であり、無機化学でプローブを初めて使ったのも彼である。シカゴ大学で、上級無機化学の講義を作ることになったのが、配位化学に関心を向けるきっかけとなった。1952年に、反応の速度と電子構造の関係を論じた重要な論文を発表し、配位子の置換速度と金属のd電子の配置の関連を最初に指摘した。分子は、電子をそのまま交換するのではなく、一種の「化学的な橋」をつくることを見いだし、類似した金属とイオンの反応で速度が異なる理由を説明した。ルテニウムやオスミウムの知見も、彼に負うところが大きい。
発表した論文は600を超え、指導した学生は200人以上にのぼる。妻メアリーとの間に3人の子がいて、息子の1人カールは、カリフォルニア大学リバーサイド校の考古学者で、マヤ文明の研究者として知られる。1971年にウィラード・ギブズ賞、1976年にアメリカ国家科学賞、1985年にプリーストリー賞などを受けた。2005年11月16日、カリフォルニア州パロアルトの自宅で89歳の生涯を閉じた。1992年には弟子たちによってヘンリー・タウベ研究所がつくられ、初代の名誉所長に就いた。
同じ年に亡くなった人物
- マクリン・マッカーティ (2005年没)
- オウシュラ・オゥグスティナヴィチュティエ (2005年没)
- Li Lili (2005年没)
- リチャード・エバーハート (2005年没)
- クレメンテ・ドミンゲス (2005年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジョセフ・スタドラー (1950年没)
- シャーリー・メイソン (1979年没)
- George Roth (1997年没)
- エステル・ゲティ (2008年没)