伝記
ジョージ・フロスト・ケナンは、1904年2月16日、ウィスコンシン州ミルウォーキーでコシュート・ケナンとフローレンス・ジェームズ・ケナンの夫妻の間に生まれたアメリカの外交官・政治学者・歴史家である。大叔父に、同姓同名の探検家で作家のジョージ・ケナンがいる。寄宿学校を経て、1925年にプリンストン大学を卒業した。法科大学院への進学を望んだが、学費が高いため諦め、国務省の外務局に志望を変えた。同じ年に国務省に入り、最初の任地はジュネーヴで、1927年にハンブルク、1928年にタリンへ移り、翌年にはバルト海沿岸の共和国を担当する三等書記官に任命された。
1931年にノルウェー人のアネリーゼ・ゾーレンセンと結婚し、同じ年に、国務省のソ連研究の一環としてベルリンでロシア語とロシアの文化を学び始めた。のちにはドイツ語、フランス語、ポーランド語、チェコ語、ポルトガル語、ノルウェー語も身につけた。1933年にモスクワのアメリカ大使館が業務を再開すると、ウィリアム・ブリット駐ソ連大使とともに1937年まで勤めた。翌年は本国で働き、その翌年にはプラハ、続いてベルリンの大使館に勤務した。ナチス・ドイツがアメリカに宣戦を布告したときは、ベルリンで数か月間抑留され、1942年5月に帰国した。第二次世界大戦中は、ポルトガルの駐在事務所の代表を務め、1944年には代理大使としてモスクワの大使館に赴いた。
1946年、本国に宛てた通称「長文電報」でソ連の行動を分析した。この電報はトルーマン政権内で回覧され、冷戦外交の基本方針となる「封じ込め」政策につながった。ケナンは、ジョージ・マーシャル国務長官が国務省に新設した政策企画本部の初代の本部長に抜擢された。1947年7月には、「X」という匿名で、同様の内容を記した論文「ソ連の行動の源泉」を『フォーリン・アフェアーズ』に発表した。しかし東西の対立が深まる中で、封じ込めがしだいにグローバルになり、軍事化することを憂慮し、政権の主流派と意見を異にするようになった。ケナンが外交政策の形成に大きな役割を果たしたのは、マーシャルが彼を重用した1947年から1948年の2年間とされる。1949年にディーン・アチソンが国務長官になると影響力は低下し、1950年に本部長の職をポール・ニッツェに譲った。
1952年に駐ソ連大使となったが、10月にベルリンでナチス・ドイツとソ連を比較する発言をして、ソ連から受け入れの同意を取り消され、ペルソナ・ノン・グラータを宣告されたため、大使の職を解かれた。翌1953年に国務省を辞し、1974年までプリンストン高等研究所で学究生活を送った。1961年から1963年にはユーゴスラヴィア駐在の大使を務め、1964年6月には国際文化会館の招きで来日して講演した。マッカーサーについては、日本社会を共産主義の政治的圧力に対して脆弱にさせると危ぶんでいたとされる。著作は多く、1957年にピュリッツァー賞(歴史部門)を、1968年には『回顧録』で同賞の伝記部門を受け、1989年には大統領自由勲章を受章した。2005年3月17日、ニュージャージー州プリンストンで101歳で死去した。4人の子がいた。
同じ年に亡くなった人物
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- 巴金 (2005年没)
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