伝記
ロナルド・ウィルソン・レーガンは、1911年2月6日、イリノイ州タンピコに、父ジョン・レーガンと母ネル・ウィルソンの次男として生まれたアメリカ合衆国の政治家、俳優である。アイルランド系の父はカトリック教会に属し、スコットランド系の母はプロテスタントのディサイプル教会の熱心な信徒だった。母の影響で11歳のときに同教会で洗礼を受け、兄のニールは父と同じカトリックを選んだ。数年間は町から町へ引っ越しを重ね、1920年12月に一家はイリノイ州ディクソンに定住した。幼いころは教会によく通い、信徒を前に説教をするようになったことが、後年の演説力を培ったとされる。1926年から、ロック川のローウェル公園でライフガードとして7年間の夏に働き、77人を溺死から救ったという。1928年9月に大学に入り、経済学と社会学を専攻して、1932年6月に卒業した。
大学卒業後は、話術と演技の力を生かして、シカゴ・カブスの試合のラジオアナウンサーになった。受信機の紙テープに印字される試合の輪郭だけをもとに、想像力と話術で実況放送を行った。1934年のセントルイス・カージナルス戦では、放送回線が故障したが、ファールボールが続くという架空の実況で、機器が回復するまで放送を引き延ばしたという。その後ハリウッドに向かい、1937年4月にワーナー・ブラザースと契約して映画俳優となった。1939年末までに19本の映画に出演し、1940年9月には、実在した大学フットボールのスター選手で、主役の親友だったジョージ・ギップの役を演じて人気を得た。これにより「ギッパー」の愛称がついた。戦時中は視力が弱かったため、陸軍航空軍の映画部隊に配属され、訓練用やプロパガンダ映画の制作とナレーションに携わり、陸軍大尉まで昇進した。1950年代の終わりには、テレビ番組『ジェネラル・エレクトリック・シアター』の司会に移った。
1940年1月に女優のジェーン・ワイマンと結婚し、長女と養子の長男をもうけたが、1949年7月に離婚した。離婚歴のあるアメリカ初の大統領である。1952年3月には女優のナンシー・デイビスと再婚し、次女と次男が生まれた。政治的には、フランクリン・ルーズベルトとニューディール政策を支持するリベラル派として出発し、のちに保守主義者に転じた。俳優組合の委員長としては、「ハリウッドの赤狩り」に手を貸したが、多くの反共主義者と異なり、共産党の非合法化には強く反対した。1964年の大統領選挙では、バリー・ゴールドウォーターを熱心に支持し、1967年1月に第33代カリフォルニア州知事に就任した。1968年と1976年の大統領選挙に出馬して敗れ、1976年にはフォード大統領に1187票対1070票で惜敗した。
1980年の大統領選挙で共和党の候補に指名され、イランのアメリカ大使館人質事件の解決策を見いだせず、経済不振に苦しむカーター大統領を破って、1981年1月20日に第40代大統領に就任した。大幅な減税など、「レーガノミクス」と呼ばれる政策で経済を立て直そうとし、外交では「強いアメリカ」を印象づける強硬策をとった。2期目にはイラン・コントラ事件などのスキャンダルに見舞われたが、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判して対抗し、サッチャー首相や中曽根康弘首相ら同盟国の首脳と密接な関係を結んで、冷戦の終結に大きく貢献したとされる。暗殺未遂事件にも遭いながら、2期8年の任期を務めた。退任から5年後にアルツハイマー病を告白し、公の場に出ず闘病に専念した。2004年6月5日、93歳で亡くなった。
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