伝記
アフマド・ヤースィーンは、パレスチナのイスラム主義者で、組織ハマースの創設者である。2004年3月22日にイスラエル軍の攻撃で殺害された。全名はアフマド・イスマーイール・ハサン・ヤースィーンで、日本語では「アハマド・ヤシン」などとも表記される。生年には揺れがあり、パレスチナの旅券上は1929年1月1日、パレスチナ側では1937年、西側のメディアでは1938年とされる。
パレスチナ委任統治領のアシュケロン近郊の村に生まれ、父は3歳のときに亡くなった。母の名にちなんで、近所では「アフマド・サアーダ」と呼ばれ、父の他の妻の子と区別された。1948年の戦争で村を追われ、家族とともにガザへ逃れ、シャーティ難民キャンプに落ち着いた。16歳だった1952年7月15日、友人との格闘遊びで重い脊髄の損傷を負い、一生四肢の麻痺が残り、車椅子を使うようになった。部分的に失明してもいた。カイロのアイン・シャムス大学に入学を申し込み、通ったが、健康と経済の問題から学業を続けられず、自宅で哲学や宗教、政治、社会学、経済学を幅広く読んだ。やがて金曜礼拝の後に毎週説教を行って多くの聴衆を集め、小学校のアラビア語教師の職を得た。1960年に親戚のハリーマと結婚し、11人の子をもうけた。
1960年代後半から、ガザ地区やヨルダン川西岸で宗教活動と社会活動を行い、後にハマースの基盤となるムスリム同胞団系の組織網を広げた。1973年にはガザでイスラム系の慈善団体「ムジャンマ・イスラーミーヤ」をヤースィーンらが設立し、この団体は1979年にイスラエルに認められた。しかし1984年6月、自宅に武器や爆発物を所持し、地下武装組織を設立した容疑でイスラエル当局に逮捕され、軍事法廷で懲役13年を言い渡された。ところが1985年5月、イスラエル兵との捕虜交換で、1年足らずで釈放された。
第1次インティファーダのさなかの1987年12月、ガザにおけるムスリム同胞団の政治部門としてハマースを設立した。ハマースは、イスラエルの消滅を求め、自爆攻撃やロケット攻撃を行った。1989年にはイスラエル兵の拉致と殺害の事件に関わったとして再び逮捕され、終身刑2件を言い渡された。尋問では、ハマースの軍事部門であるカッサーム旅団の設立を命じたことを認める供述をしたとされる。1997年、ヨルダンでのハーリド・マシャアル暗殺未遂事件でヨルダン側に拘束されたイスラエルの諜報機関の要員との交換で釈放され、ガザに戻った。釈放後は、ハマースの活動の調整や資金の面で、より積極的な役割を担うようになったと、イスラエルやアメリカの当局は説明している。2003年8月、アメリカ財務省は、ヤースィーンをガザにおけるハマースの指導者として制裁の対象に指定した。
2004年3月22日未明、イスラエル軍はガザ地区でヤースィーンを標的にした攻撃を実施し、殺害した。イスラエル軍は、ヤースィーンが数十件の攻撃とイスラエル人や外国人、治安要員の殺害に責任を負う人物だと説明した。また、早朝の礼拝を終えて車椅子で運ばれているときにヘリコプターからミサイルが発射され、側近2人と通行人7人も亡くなった。この攻撃は国際的に非難された。葬列には、ガザで20万人が参列したとされる。
同じ年に亡くなった人物
- レイモン・ゲタルス (2004年没)
- ハンス・フォンク (指揮者) (2004年没)
- Bjarne Andersson (2004年没)
- ゴードン・クーパー (2004年没)
- フィリップ・アベルソン (2004年没)
同じ地域に関係する人物
- ポルフュリオス (420年没)
- アンリ2世 (バル伯) (1239年没)
- アナス・アルシャリフ (2025年没)
- ヴィットリオ・アリゴーニ (2011年没)
- レイチェル・コリー (2003年没)