伝記
明帝は、東晋の第2代皇帝である。諱は紹、字は道畿。299年に、当時琅邪王であった司馬睿の長男として生まれた。生母は代郡出身の荀氏という側室で、漢化した鮮卑族の娘とも伝わる。司馬睿の正妻の虞氏には子がなく、荀氏を激しく妬んで虐待し、荀氏は屋敷から追い出された。そのため紹は虞氏に育てられたが、両者の関係は穏やかだったらしい。幼いころから聡明で機転がきき、父に愛されたという。長安からの使者が来た折、父が「太陽と長安はどちらが近いか」と問うと、「長安が近い。太陽から来た人は聞いたことがない」と答えた。翌日、居並ぶ家臣の前で同じ問いが出されると今度は「太陽が近い」と答え、驚く父に「太陽は目に見えるが、長安はここから見えない」と述べたという。
317年に父が晋王となると世子に立てられた。父は初め弟の司馬裒を太子にしようとしたが、王導が年長の子が継ぐのが筋だと指摘したため、紹が立てられたとされる。318年に父が皇帝(元帝)に即位すると皇太子となった。太子のころは才能ある人物を探して、部下としてではなく友として接した。王導、のちに妃となる庾文君の兄の庾亮、温嶠、桓彝、阮放らがその仲間である。孝行で学問を好み、のちに武芸も学び、しばしば軍を訪れて兵を励ました。
322年に王敦が反乱を起こすと、都の建康は簡単に陥落した。王敦の軍が防備を破ったと聞いた太子は自ら出陣しようとしたが、温嶠が「殿下は国の世継ぎ。御身を軽んじてはいけません」と諫めて止めた。勇猛で剛毅な太子は王敦に忌避され、元帝が末子の会稽王司馬昱を溺愛したこともあって、地位が微妙になった。王敦は太子を不孝だと偽って廃そうと考えたが、温嶠が太子の孝心を公に称えたため、その企ては通らなかったという。元帝は王敦に敗れた失意のなか、323年の初めに没し、太子が即位して明帝となった。
即位してまず、生母の荀氏を探し出して屋敷に住まわせ、建安君に封じた。しかし亡き継母の虞氏への敬意からか、荀氏に皇太后の称号は与えず、虞氏の一族を母方の親族として厚く遇した。王敦は新帝を軽んじて簒奪をたくらみ、323年の夏には拠点を武昌から都に近い姑孰へ移した。324年に王敦が病むと、その養子の王応を帝位につけようと決意した。王敦は温嶠を建康の長官に任じて皇帝を見張らせようとしたが、温嶠は明帝に忠実で、王敦の計画と病状を明帝に知らせた。王導も王敦が死んだと偽って官軍の士気を高め、明帝は北の国境から歴戦の兵を呼び戻した。到着した蘇峻と劉遐の軍を、夜であるにもかかわらず自ら訪れて励ましたという。王敦は太寧2年(324年)に病死していたが、明帝は反乱軍を破って鎮圧し、その棺を暴いて屍に刑を加えたと伝わる。
明帝は皇帝権力の安定のために王導を重用し、江南の貴族にも融和的な政策をとった。王導から司馬昭らによる簒奪の経緯を聞くと、顔を覆って「どうして晋の皇祚を長く保てようか」と言ったという。太寧3年(325年)閏8月、西堂で崩御し、享年は27であった。正室の庾文君との間の成帝と康帝が、のちに帝位を継いだ。東晋随一の名君で、長命であれば東晋の命運は延びていたかもしれないと評される。一方で、明帝が築いた不安定な均衡はまもなく崩れ、蘇峻の乱を招いて晋をさらに弱めた。俗説には、明帝は金髪で黄色い髭だったともいい、容貌を見た王敦が「鮮卑奴」と評したとも伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- リキニウス (325年没)
- Sopater of Apamea (325年)
- カルキスのイアンブリコス (325年没)
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